元村正信の美術折々/2019-02-24 のバックアップソース(No.1)

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美術折々_194

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そこのあなた

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かねがね目を通している思想家・森崎茂が久し振りに更新したブログ、『歩く浄土』250(2019年2月10日付)の長い文章の中にこんな言葉があった。それは小説家・島尾敏雄の文学について触れたものだ。「彼の文学もまた解けない主題を説けない方法で書かれてきたのではないか。はたして書かれる必然性はあったのか。なかったと思う」とまで、森崎茂は言い切っていた。すでに『死の棘』ほかで高い文学的評価を得ている島尾敏雄ではあるが、僕にとっては身につまされるものがある。

それをすぐさまこう言い換えてみよう。僕にとって絵画は、「描かれる必然性はあるのか」。本当に「描かれるべきことが、描かれているのか」と。そのことに応えていない絵画など、なんの意味があろうか。これは絵画の内容や形式を問う以前の問題なのだ。当然ただイメージの湧くままに手が動くままに、素材に任せるだけで芸術が美術が絵画が、成り立つ訳ではない。たとえ仮にそれが、絵画だと言われようとも。

そして僕の〈絵画〉もまた「解けない主題を説けない方法で描いているのではないか」と自問してみるのである。森崎茂は同ブログの中で、島尾敏雄の長男・島尾伸三(写真家)のこんな言葉も引いている。「そこのあなた」、「膨大な量の本が口を開けて人の魂を吸い取る世界に、父は呑み込まれていたのです」。伸三はこうも言う「芸術や表現がそんなに大事だなんて」。ここでも、僕は再び身につまされるのである。

〈そこのあなた〉とは、もちろん僕のことでもあるのだ。なんの屈託もなくただ描くことができるのは幼児の頃のことであり、芸術という意識すらない「絵」のことだ。だから私たちが芸術というものを、そんな「大事」なこととして問題にし、言うからには、やはりどうしようもない痛切さがあるからだろう。

自他ともに、くれぐれも「芸術」に呑み込まれることなきよう。