元村正信の美術折々/2019-01-21 のバックアップ(No.2)


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美術折々_188


濡れたエロス


1月20日まで福岡アジア美術館で開かれていた展覧会、『闇に刻む光』アジアの木版画運動 1930s-2010s

第二次大戦をまたいでの80年間にわたる、中国をはじめベンガル、インドネシア、マレーシア、ベトナム、フィリピン、韓国そして日本といった、いわゆる「アジア」各地で制作されたであろう膨大な数の「木版画」の中からその「作品」を通して、それがたんに美術的な表現の手法としてのみならず当然のように政治、社会、労働、そして名を残されることもなかった民衆の運動とも結びつきながらそれらへの弾圧と解放の渦はアジア各国の「近代化」運動に呼応しあるいは抵抗し、また否応なく巻き込まれ翻弄されて行った人々にとっての〈闇と光〉の痕跡を「大衆的」な「メディア」としての「木版画」の中に見ることによって、それを現在から捉え直そうとするものだ。

当の木版画のみならず、その掲載物と資料を合わせた約400点もの数からなる見応えのある大規模な展覧会だった。

と、流すように言ってしまったが。たとえばそこに、西欧列強、植民地、侵略、残虐、圧政、抑圧、自由、独立、民主化、闘争、行動、分断、対立、孤立、連帯…。言葉だけあげるなら、こうしていくらでも続く。

しかし同時に言葉だけの虚しさもいっそういや増す。この日本から見える巨大な「アジア」の底知れぬ〈闇を射す光〉あるいは〈光に埋もれる闇〉とともに。

世界を席巻する現在のグローバリズムから見れば、アジアでの中心と周辺との関係も、さらに屈強な経済の中心を多数生みつつ、一方であらたな周辺を無限の貧困と底辺を生み出してやまない。いまの「アジア」に流れ込む余剰マネーの行方をみればいい。ここでも〈闇と光〉は強烈だ。私たちはいまも「闇に光を」刻めているのだろうか。それはどんな「光」なのだろうか。

そんなことを思いながら、僕がこの展覧会でもっとも惹かれた独断的な一点。それは日本の飯野農夫也の木版画『濡れた稲束』(1954)だった。大地に根をおろし働く農民の姿を多く木版画にし、プロレタリア芸術運動にも関わったという飯野だが、この作品も稲束を肩に抱えたひとりの農婦を描いたものだ。よくあると言えば、よくある牧歌的で素朴な題材である。

しかしこの一点には、自由も抑圧も連帯も孤独も、そして闇も光もない。ただそこにあるのは、稲をかかえ雨にだろうか濡れた農婦、ふくよかな胸も悩ましい一人の女なのだ。飯野農夫也はこの時なにをみていたのだろう。

もはやそこには労働も抵抗も、運動もプロレタリアも微塵もない。ただ時が止まったように、淡く湯気立つ湿った藁をだいて濡れたエロスだけが匂い立っていたのだった。