元村正信の美術折々/2019-01-17 のバックアップソース(No.1)

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美術折々_187

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それでも感性は抵抗し続けるだろう

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では、〈感性の抵抗力〉とはどういうものなのか。たとえば幼児が描く絵は、与えられた道具で好き勝手に手を動かして出来た「絵」だ。これはいかにも抽象的な芸術にも見えるが、それはまだ「芸術」に成ってはいない。無抵抗な感性の表出そのものだ。絵を描くことが好きな子なら、その感性を養い育み伸ばしてやろうと親は思ったり、感性豊かな人間になって欲しいと願いもする。長じてその鋭敏な感性を生かして芸術家になったという話も聞く。

ただ僕などは、この「感性」というものをそのまま信じてはいない。むろん自分を含めて。感性、感じ方は、つまり慣性/惰性と言い換えてもいいだろう。惰性もそうであるように、それが良いとか悪いとかいうことではない。成るようになる、ただそうある、としか言いようがないものだ。感性のない惰性のない人間などいない。聞きとる、あるいは聞き流す。見る、見ない。手触りはどうか、どんな味か、どのような匂いか。むしろ私たちはうまく五感を近づけあるいは遠ざけながら、その感じ方を惰性を有効に機能させている。これはだれにでも備わった能力なのあである。感性というのは誰もがただ呼吸するように、眠り目覚めることとおなじように、その多くが自然で抵抗すらないものだ。偏見さえ除いてしまえば感性に優劣などない。身体能力の差異はあるにしても。

では「感性が抵抗する」ということは一体どういうことなのか。つまりこれは反自然としての、人工物としての、技術としての「芸術」の成り立ちに関わっているのである。ただ感性は、感性のままでは呼吸することと何ら変わりはない。だがそれでも感性は芸術への意志において、どこかで転倒し反転するはずだ。五感のどこかの歪み、屈折、あるいは突出した力、もしくは欠損、未発達によって感性はいちど転倒し、ねじれるのである。

そうやって感性は自らのどこかに負い目や違和を覚える。これこそがスプリングボード、契機つまりそのことによって感性の特殊な不可欠さを、切実なものとして身体は気づくことになるのだ。そこから惰性への抵抗という力が芽ばえてくる。自然に沿って流れ流されていくことへの自らの抵抗。ここで《芸術への力》は、自然と反自然との間で葛藤することになる。しかしいまだ一方で感性というものは得てして単純なものであり、大きな力には何の疑いもなく同調し同一化してしまうものだ。それは危うい。そこで初めて自覚される〈感性の抵抗力〉は、さらにもっと意識的にならざるを得ない、先鋭化せざるを得ない。自然とも反自然とも異なる有りようとしての〈感性〉が、渇望されるからではないだろうか。だから、抵抗する感性のみが結晶するのだ。

私たちは、いまもたしかに「芸術」を待っている。しかしそれがどのような「芸術」なのかは未だ知るよしもないが。すぐそこにはあることだけは言っておこう。