元村正信の美術折々/2019-01-10 のバックアップ差分(No.1)


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美術折々_186

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だが、何のために?

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先日あるTV番組で、やりたい仕事とやりたくない仕事の間で悩み、思うように就職できないでいる大学出の若い人たちに向けて、予備校講師の林修が面白いアドバイスをしていた。それは何かというと、生きる上で大事なのは「解決力」と「創造力」だというのだ。なるほどな、と思った。このふたつの力は、仕事だけでなく学校でも生活上でもいろんな場面で必要とされる基本的な力と理解できる。

目の前にある壁や課題・難題にぶつかった時どう対処すべきかを、この「解決力」と「創造力」という力は、さまざまな答えを導き出してくれるように思われる。解決力という、問題を解き前進する力。そして創造力という柔軟な感性の駆動。僕などから見れば、もしこのふたつの力が十二分に発揮されれば、苦痛の多いこの処世に怖いものなどないのではないかとさえ、思えてしまう。であるのなら、きっといろんなアートプロジェクトやアートシンキングも、「解決力」と「創造力」さえ駆使すれば社会との協同関係をよりよく築くことができるだろう。

しかしである。ではなぜこの現実に、未解決の問題や解決できない問いが、問いのままなおも残され私たちを悩ませているのか。たとえば、あるひとりの生が真っ向から否定されようとする時、いまその時。いったい何が「解決」され「創造」されるのだろうか。生を否定する圧倒的な力を前に、無力でないと言い切れるのか。そこでは「解決」も「創造」も挫折することはないのか。

つまり僕が言おうとしているのは、巡り来てここでも〈芸術の問題〉なのである。芸術をかんがえようとする時、生みだそうとするとき。翻って「解決力」が「創造力」が、はたして役にたつのだろうか。いや芸術こそ創造であり想像ではないのかと、すぐさま反論されるだろう。そうではないのだ。むしろ芸術は「解決」できない「創造」できない。だから解決を、創造を、意識を、破壊した上でまるごと矛盾として生まれる必然があるのではないだろうか。ニーチェ的にいうなら「だが、何のために?」と問おう。役に立つためか、必要とされるからか、機能するためにか、道具化するためにか、社会のためにか。そして「解決」され「創造」される〈ために〉か。

前向きな人には、「解決力」と「創造力」は大いに役に立つには違いない。だがもし私たちが「何ものをももってはいないがゆえに」、〈芸術〉を生み出そうとしているのなら、解決力と創造力はむしろ逆に足かせになるだろう。なぜツェランが「自分を離脱させよ」と語ったのか。それは解決や創造を脱ぎ捨てたさらなる高みへと私たちを鼓舞してくれたからではなかったか。

だからニーチェはこうも言ったのではないか。「芸術は、生の否定へのすべての意志に対する無比に卓抜な対抗力にほかならない」(『権力への意志』下、ちくま学芸文庫)と。
そしてさらに私たちには、もっと別の力があるではないか。感性の抵抗力と思考の転覆力という〈芸術への力〉が。