元村正信の美術折々/2018-12-13 のバックアップ差分(No.1)


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美術折々_181

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自分の証明と、証明できないじぶん

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先日あるギャラリーで。紙に描いたドローイングを壁面いっぱいに展示し、それを見た人がそこから受けるイマジネーションをそれぞれがハガキぐらいのメモ用紙に書いて、会期中その上に貼り付けてもらうというような作品があった。この寄せ書きみたいなコメントの数が多くなれば、当然このドローイングは感想文で隠されてくることだろう。

僕はそれらをいちいち読むとは無しに眺めていた。が、たまたまその中の一片に目がとまった。そこにはこんな言葉があった。
「自分は頭のよい人がこの世を良くしてくれるのだと思っていてかってに思い込んでいたんだけど」。言葉はこの後もう少し続くのだが、僕は出だしで軽いショックを受けてしまった。「頭のよい人がこの世を良くしてくれるのだ」という純粋さ、無垢さ、素朴さに、何より驚く。若い女の子だろうか、男だろうか、どんな人なのだろう。僕は疑った、2018年も暮れていく、この時代に。ここは身分秩序の生きる近世の終わりか、それとも立身出世の日本近代の始まりか。

自分は頭がわるくて出来損ないで、なんの力もなくて、だから頭のよい人がこの世を良くしてくれる。そんな風に「かってに思い込んでいたんだけど」それが違っていた、やっとそれが分かったと言いたかったのだろうか。たしかにこの世には頭のよい人がいて、エリートもいて、地位も名誉も金も得てやがて権力というものを握っていく。

しかしそういう人たちが、はたしてこの世を「良くして」くれただろうか。そんな時代がかつてあっただろか。

たとえば、橋本一径(早稲田大学文学学術院教授)は『アイデンティティは何を抑圧しているか』という文章の中でこんなことを言っている。「私たちは自分が誰であるのかは自分では証明できないということ。そしてそれを証明しようとすると、最後は権力に行き着くということです」。この引用はここで唐突にみえるかも知れない。だが「自分は」というとき、頭がわるい自分、男である自分、背の低い自分、イケメンの自分、カッコイイ自分、若い自分、老いた自分…。こうしていくらでも、どのようにでも「自分」を誰かと何かと区別し差別化できるし、しようとすることがじつはアイデンティティの正体なのではなかったか。橋本一径が、「最後は権力に行き着く」と言っていることは、つまりは〈最初に〉権力が始まっているということもできる。

この世を巡る、頭のよい人と頭がわるい自分。私たちはこの底無しのピラミッド型の権力構造のどこかに〈自分〉と〈自分ではないもの〉によって腑分けされている。だが自分が必ずしも自分でないのだとしたら、この拘束や束縛から、あるいは制度からも自由になれる。むしろ〈自分〉を「証明」できないことによって私たちは、生きいきと生存することができるのではないだろうか。