元村正信の美術折々/2018-09-04 のバックアップ(No.2)


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美術折々_165


ありうるかも知れない〈場所〉


9月3日付 毎日新聞夕刊1面に「ニッチ文学賞 続々」という見出しで、従来の文学賞とはことなる「ニッチ」な新人文学賞を大手出版社が立て続けに創設している、という記事が載っていた。ニッチとはよく隙間産業とか
言われ、既成の市場や分野が扱っていなかった商品や手法によってあらたなニーズを掘り起こそうとする、
あれである。

文学賞に「ニッチ」?とおもうかも知れないが、本が売れないなら、誰でも知っている直木賞や芥川賞などとは違う、例えば「警察小説大賞」や「日本おいしい小説大賞」など特定のテーマやモチーフを対象に絞り込んで、広く浅くではなく、狭く多くで読者層の開拓をねらったスキマ産業ならぬスキマ文学賞なのである。それも大手出版社じしんが創設しているのだから、その危機感というか「賞効果」によって本を売りたいという出版業界の苦悩と挑戦の一端が伺えるというものだろう。

では、美術やアートの世界はどうなのだろう。日本に限って見ても、いつの時代でも大きな賞から小さな賞まで国内各地、いわゆる公募団体まで含めると、それこそピンキリごまんとある。いずれにしても「賞」というものは、与えるほうも頂く方も、ある種の〈権威〉を媒介にして仮構的につながる訳である。作家にとって、青年期を過ぎての老境に至ってからの賞というのは、宝クジならいざ知らず、付録のようなものでそんなにそれからの人生を狂わすようなことは多くはないと思うが、こと若い人にとっては、往々にしてあるものだ。

たとえば、20代中頃でたまたま大きな賞をもらい、有るか無きかの自らの才能というものがわからぬままそれ以後、作家としての人生にひたすら固執した結果、けっきょく無残な作品ばかりを残すしかなかった人も多い。自らに絶望することなどいくらでもある。むしろその絶望にすら気づかない作家の何とおおいことか。とくに「若手作家」という希望に溢れた美しい響に、おのずと周囲も期待度を高め煽るものだ。しかしそれもせいぜい40代くらいまでの話だ。

確かにいまの若い作家は恵まれていると思う。人によっては大学の卒展ですでに企画ギャラリーが青田買いしてくれるし、国内外の賞やレジデンス、企画展あるいは地域アートなど、活躍の場も多い。助成金のチャンスも
増えた。おのずと作家として生きていけるのでは、という希望も膨らむだろう。

だがまてよ。それって「作家」として生きていけることに繋がるのかも知れないが、「芸術」を生きていくことと同じことになるのだろうか。ただ専業化しただけではないのか。もしかしたら、アーティストになれれば芸術への問いなど二の次だ、なんてことなのだろうか。しかし今は、だれでもアーティストの時代なんだから、どんなことをしても自らアーティストと名乗れば問いなどなくとも済むのだろう。

話をもとに戻せば、「賞効果」というものは〈権威〉を媒介にした知名度の消費計数にすぎない。じつは「賞」を頂点とした業界ヒエラルキーや市場の外部にこそ文学や芸術の根源的な問いや、営みは、在るのではないか。「ニッチ」すら及ばぬもの、そこから必然的にこぼれ落ちるところ。それが、いまだ定かならぬ文学や芸術が、
これから起こりうるかも知れない〈場所〉となるのではないのだろうか。