元村正信の美術折々/2018-07-10 のバックアップ(No.1)


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美術折々_156


『森山安英──解体と再生』に触れて(4)



1987年。銀色の絵具による絵画は「色と形」をに用いずに、当初は筆を使うことなくアルミの粉末を樹脂系の溶剤で溶いてキャンバスに流すようにして「描き」始められている。その表面には斑点のような突起物が散りばめられ、流された銀色の絵具がそれらの抵抗を受けながら画面が生まれる『アルミナ頌』のシリーズだ。この頃の「絵」は、画家・菊畑茂久馬の『天動説』シリーズとの類比がよく指摘されてもいた。絵画と物質の相克やモノクロームとしての表面、等々。森山にとっての「再生」は、少しづつ時間をかけて再び「社会」という明るみに引き出され復帰して行くなかで、旧友の働正や菊畑茂久馬たちとの久し振りの再会を通して、おそらく彼らを自らの再生の〈鏡〉にしたのではないだろうか。

じっさい1982年以降、菊畑の新聞連載や著作をきっかけに〈集団蜘蛛〉の軌跡は、日本の「前衛」美術史研究の中でかつての特異なその存在が、再び若い世代にも知られるようになる。〈蜘蛛〉がなければ裁判もなかったが、森山がいうように裁判がなければ絵に復帰したかどうかもわからないのだが。それでも森山を貫くすべての絵画は、〈蜘蛛〉というかつての存在によっていまだどこまでも品定められているのではないか。

最初の『アルミナ頌』以後、森山は、序々にフラットな表面の反射がつくる「光」のヴァリエーションに集中して行きながら、絵具の流し方の熟達を見せた『光ノ表面トシテノ銀色』へと移行していく。やがて1990年代前半の、流された銀色の絵具の偶然性に多くを依存する『ファインダーレポート』で、いわゆる「ヴァリエーション」としての「表面」は、ほとんど限界に達していたのではないか。それは偶然性に依存しながら、同時にそれをかなりコントロールできる熟練があったにせよ、それでも「絵画」というにはいまだ「描く」ことが、まったく欠けていたということでもある。

だから1996年以降の『ストロボインプレッション』から『レンズの相克』そして『非在のオブジェ』を経てて1999年の『レンズの彼岸』まで、徐々に形をともなう描線や筆の使用が増えて行ったことは、「描くこと」にむけて意識的に銀色絵具の超克をしきりに図っていたのではないかと思われる。

さらに2002年から始まる『光ノ遠近法ニヨル連作』から2010年の『水辺にて』まで、「形と色」への模索が積極的に銀色絵具を隠すようにして試みられているのがわかる。回転するトンネルのような遠近感に合わせ、モノクローム的ながら様々な色彩を使った絵筆もまた動きを険しくしている。そして2011年から2013年の、巨大なタンカーの横幅の断面を左右いっぱいに描いたような単調な構図の『幸福の容器』では、色彩はモノクローム的な扱いを脱し複数の色を使い、絵筆も拙い運びではあるが自らの運筆によって描こうとするこれまでにない試みが見られる。しかしここでもまだ「銀色絵具」は、捨て切ってはいない。だから下地のようにどこか踏みきれぬ躊躇のようなものとして、「銀色」が色彩と絵筆の向こうに透けて見えるのである。

森山安英は、確かに画家として格闘してきたと思う。「描こう」としていたのだとつくづく思った。2013年から2017年の『窓』まで、それは手に取るようにわかる。2014年の「窓13(レオナルド・ダ・ヴィンチ手稿による引用)」あたりから、森山自身が「これが絶筆です」と語ったという最新作「窓51(石内都写真集『ひろしま』による引用)」において、やっと「銀色絵具」は消えたのだがそれでも結局27年というあいだ、森山は「銀色」を選び取ったことで逆に「銀色」から執拗に拘束されてきたとも言える。もしかしたら「銀色」は森山の絵画への帰還を、遠ざけ遅らせてしまったのではないか。これには当然反論があろう。「銀色」こそ「絵画」なのではないか、という。しかし、じつのところいまだ僕には「銀色」が〈絵画〉であると断言はできない。描かれてはいない何か、あるいは「絵画」の相貌をした〈何か〉であることだけは確かにいえる。

森山は「もう描きたいものはない」と言ったらしいが、ほんとうはもっと描くべきものがあるはずだと僕は思う。もしその肉体と精神がまだ許すのなら。やっとこれからではないのか。「銀色」の桎梏から抜け出せたのなら、ながく求めていた〈絵画〉は、すぐ目の前にあったのではなく、やっと目のまえに〈現れて〉きたということではないか。今回の展覧会に森山がいう「普通の絵」など一点もなかった。「普通の絵」など描けないからこそ、森山安英は過激に問うてきたではなかったのか。芸術の否定と、その否定の果ての「芸術」と「森山安英」の現在。それはそのまま「芸術に対しては骨の髄まで恨みに思う」と言い切った森山が帰還した場所であり、そしてその彼を両腕で抱擁し歓待した「芸術」というもの。

森山が、ながい苦節と苦闘の果てに、たどり着いた地点とは一体どこだったのだろうか。それはいったいどんな〈絵画〉だったのだろう。
これまで「一回も絵を手放したことはないのです」という森山安英にとっての「芸術」の奥底の声を、いつかどこかで聞いてみたい。
                                                             (了)