元村正信の美術折々/2018-07-07 のバックアップ(No.1)


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美術折々_155


『森山安英──解体と再生』に触れて(3)



では、これまで「一回も絵を手放したことはないのです」と言う森山から「絵画」を遠ざけたのは一体何だったのだろうか。
むろん直接的には、「前衛芸術集団〈蜘蛛〉」という彼にとって自壊の頂点へと向かう過激なエネルギーがそうさせたのは間違いない。

だがそれ以前、「絵描き」をこころざし佐賀大学特設美術科に入学した森山は、二級上の先輩である久保田済美という若者と出会う。じつはこの出会いこそ、森山のその後を決定的なものにしたはずだ。森山はその出会いを「青天の霹靂」とまで表現している。久保田済美という眩しすぎる存在が、そして久保田への反動が、森山の芸術への試行をどこか屈折したものにさせたのではないか。森山は久保田を「師匠」といい、「すごかった」、「なかなか越えられん壁だった」という。「日本の近代美術で、あれほどフレキシブルな色を使った絵をみたことがないっていうか、今でも思います」と述懐している。これはつまり久保田済美という才能に、森山は打ちのめされてしまったということだろう。それを裏付けるように、久保田が佐賀大を退学すると「大学にいる理由がなくなって」しまった森山は、3年生の暮れに実家に戻ったまま除籍となり大学をすてた。

たしかに、たとえ絵を描かなくとも「絵を手放したこと」にはならない。「絵画」という対象は逃げてはいかないし、いつもそこにある。
ただ、久保田済美という才能を「骨の髄まで見せつけられ」た森山は久保田をうしなったことによって、ある空虚のようなものを抱え込んでしまったのではないだろうか。言ってみれば半端に「芸術」を覗いたままこの世の路頭に放り込まれた、21歳の屈折した若者がそこにいたはずだ。

それからなぜ25年以上も、逆に「絵画」は彼を突き放したのか。自業自得とはいえ二つもの裁判によって彼は「絵筆」から遠ざけられたのである。それでも1987年、51歳の森山安英は『アルミナ頌』によってやっと本格的に「絵画」へと帰還することになる訳だが。森山はこうも言う。「僕の場合は美術に対して、それは愛憎ですけど、絶望の方が大きかったね」、「芸術に対しては骨の髄まで恨みに思うし」。なぜなのか、どうしてなのか。かつて、久保田済美によって「骨の髄まで見せつけられ」た才能というもの。そしてそんな芸術に対してなぜ、森山安英は「骨の髄まで恨みに思う」のか。ここに亀裂として横たわる〈愛憎〉。これは僕の独断だが、もしかしたら森山は、この時じぶんというものの「才能」に対しどこか絶望していたのではないだろうか。

どうなのだろう。「裁判がなければ絵に復帰したかどうかもわかりませんね」と森山は回顧する。意外だったが、言い換えれば二つの裁判を経験したことによって時間は長くかかってしまったが「絵画」へと〈再帰〉できた、ということだろう。その「悲惨な裁判」の特異な総括を通して、いわば芸術における価値への敗北から、あるいは才能というものへの恨み、不信を、「骨の髄」まで恨みに思う芸術を、逆に森山は踏み台にし得たからこそ「絵画」へと帰還できたのではないだろうか。「一回も絵を手放したことはない」のならそのとき森山にとって「絵画」は、私たちが想像する以上に、すぐ目の前にあったのかも知れない。

しかしそれでも30年近く、正面から「絵画」との対峙を避け離反を余儀なくされ、絵筆を巧く運ぶ修練も積んでこなかった「絵描き」にとって、真っ白なキャンバスに対する恐れ、苦しさ、しんどさ、その困難さは容易に想像がつく。さてどこから手をつけよう、ということだったろう。

どうしても「色と形が欲しくなったのです」(森山)という懺悔にも似た告白は、逆にいえばそれでも「色と形」というものは、そう簡単には現前しないということを、森山は再帰的に「絵画」というものの《崇高さ》をまえに、改めてたじろいだに違いない。だからあの〈銀色絵画〉、『アルミナ頌』の、銀色の絵具による絵画は、何より「色と形」を直截的に用いずに留保する方法として、必然的に舞い降りてきたのではないだろうか。