元村正信の美術折々/2018-07-03 のバックアップ(No.1)


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美術折々_154


『森山安英──解体と再生』に触れて(2)



前回の最後に僕は、「森山安英にとって『絵画』とは、どう〈再帰〉したのだろう」と問いを発した。
これを考えるには、今回の図録に収められた森山安英インタヴュー[1]〜[5]における森山自身の証言が多くの
手掛かりを与えてくれる。

その森山が、どう〈再帰〉したかをたどる前にすこし遠回りになるが「絵画以前の森山」にどうしても触れておく
必要があるだろう。まず何よりも森山安英という男を「伝説的」にした、1968年から1973年まで自らが関わった「前衛芸術集団〈蜘蛛〉」と、例のいわゆる「森山裁判」。もう50年も前のことである。森山裁判というのは、森山が「公然わいせつ罪」及び「わいせつ図画公然陳列罪」で有罪判決を受けた事件のことだ。
「前衛芸術集団〈蜘蛛〉」というのは当時の「北九州において、いわば自爆テロを志向した前代未聞、空前絶後の反表現運動」(森山)であり、「その過激な自己破壊がもたらす一種のカタルシスというかカタストロフィの被虐的な快感の麻痺によって現実の痛苦をまぎらわせ」た運動だったと森山はそう振り返っている。

ただ森山が「自己破壊」的傾向を持っていたのは、どうやら幼少年時代から青年期までのエピソードからもすでに
その片鱗は見られる。例えば、雑誌『機關16 ─「集団蜘蛛」と森山安英特集』(1999年、海鳥社)に掲載された「森山安英自筆年譜」から少し抜き出してみよう。まず幼少期に同級生の女の子自身に砂を入れて遊び、ひどく叱られる。17歳の夏、犬の標本作りの時の悪臭に嘔吐し凄惨きわまる哭声の記憶。18歳の夏休み明け、汚物を入れ腐らせておいた汚水を教室の窓から登校してくる生徒の頭上にぶちまける。20歳、佐賀大の時に泥酔し当時80万円はしたというショーウインドのガラスを破砕。他日深夜、ヤクザとけんかになり、ナイフで顔を切られる。23歳、実家に戻り家中のガラスを全部割って暴れ、体中にガラスの破片が入り入院。やがてホームレスになり4年ほどを無収入で山の中に暮らす、といった具合である。

どうしようもない現実への怒り、愛憎、絶望が、繊細すぎた彼の感受性と肉体を貫いていたとするなら、森山がいう「被虐的な快感の麻痺」という感覚は、すでに若い彼の肉体を覆い尽くしていたのではないだろうか。そして1960年、24歳の時に小倉で、のちに九州派の論客と言われるようになる画家の働正と早くも出会っている。このことは、森山が九州派の存在を知り、同時代の芸術つまり当時の日本の前衛美術の動向に関心をもつきっかけともなる。森山にとって働正との出会いは、その後の彼をつよく鼓舞し左右したのではないかと、僕は思う。

その後の森山は堰を切ったように「前衛芸術」の渦の中に飛び込んでいくのだが、それでも森山の中には日本の近代美術や現代美術への「絶望感の方が大きかった」らしい。それからの「前衛芸術集団〈蜘蛛〉」の結成から崩壊までの道のりや過激な一連のハプニングはすでに知られる通りだ。

けっきょく森山の「被虐的な快感の麻痺」は、彼自身の身体的破滅ぎりぎりまで容赦なく彼を蝕むことになってしまった。「殆ど仮死状態」の森山安英が、さらにもう一つの過酷な「家屋立ち退き裁判」を終えるころにはすでに47歳になっていたのである。いままで「僕は一回も絵を手放したことはないのです」と言い切る森山だが、佐賀大の画学生時代の離反からすでに25年以上「絵画」から、絵筆から、遠のいていたことになる。