元村正信の美術折々/2018-06-27 のバックアップ(No.2)


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美術折々_153


『森山安英──解体と再生』に触れて(1)



いま、北九州市立美術館本館で開催中の展覧会『森山安英──解体と再生』。(7月1日迄)
1936年生まれの同市出身・在住の画家、森山安英(81)の軌跡を振り返る大規模な個展である。
1987年(51歳)以降の油彩約170点と、1960年代末期から1973年まで自らが関わった「前衛芸術集団
〈蜘蛛〉」の資料からなる。

地元北九州や福岡の美術関係者あるいは日本の現代美術研究者のあいだでは、その初期の活動の過激さにおいて
「伝説的」に語られてきた作家なのだが、その後の約15年間の沈黙をへて51歳からの「絵画制作」の本格的
再開から最近作までの約30年間をして、「画業の回顧」と単純に捉え返すことはこの作家にはどこか不似合いだと思ったのは僕だけだろうか。

それでも、おそらく多くの作品を廃棄してきたであろうにこれ程の「作品」が残っていることに、僕は何よりも驚いた。それと同じように瞠目したのは今回の「図録」である(企画:同館学芸員 小松健一郎)。
ご覧になった方は分かると思うが、背幅約24mmの部厚さ、本文319頁からなる重いカタログだ。そのなかで図版つまり森山安英の作品写真を主とするカラーページは、約84ページ。要するにこの図録の三分の一にも未たない紙幅に「作品」は収められているということだ。それは逆に言えば、三分の二以上が森山安英という「作家」を踏まえてもなお、例の裁判資料を含んだこの編集の全体が意味するものは、破滅的にしか表現というものを「犯し」ようのなかった森山という「人間」の掘り起こしや、不可解さ溢れる「彼」への関心によって成り立っているということではないだろうか。むろんこの図録はその時代の証言としての聞き取りであると同時に「森山安英」という「画家」を記録した、現在からの視点という意味での貴重な資料になることは言うまでもないが。

しかしである。なんとも言えない、〈ため息〉のようなものをいちど吐いてからしか森山には近づけないようなところが僕にはある。

森山への執拗かつ丁寧な[インタヴィユー]の集成。そのことによって森山は自身の恥部を吐露することを少なからず引き換えにはしたが、それは森山が死してもなお、彼が想像した以上のものを残すに違いない。私たちはじっさい取るに足らぬ知る必要のないものまでを知り、また読んだ以上のことを想像しそれを〈経験〉できたのだから。

そのことは彼が「否定」したものによって、森山は「判定」される結果を胚胎しそれを負って「自滅」的に生きたとしても、それでもなぜ有り体に言えば世俗的ともいえる手垢のついた「解体と再生」という言葉を自ら容認でき、それがこうして「再」評価されるという矛盾にもつながっているのか、ということに対する反問としても当然浮上してくるのだ。

ほんとうの自死や自爆テロは、自分じしんには再生不可能、つまり生き直すことが絶対不可能なものなのだ。
これをもし「再生」してくれるものがあるとするなら、それは過去において彼が被った〈美の負債〉、あるいは〈表現の否定〉においてではなく、それらが後の若い世代に転形し転移した感性がなぜ改めてそこに吸い寄せられ、なおも彼のあるいはそこで行使された矛盾に、僕からすれば別の《異和》を抱いくことによってではないだろうかということになる。

では、森山安英にとって「絵画」とは、どう〈再帰〉したのだろう。