元村正信の美術折々/2018-06-20 のバックアップソース(No.1)

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美術折々_152



死ぬまでアートか、死なない芸術か、それとも芸術の死か


ここ数年の間に急速に広まった「人生100年時代」という超高齢化社会への掛け声。それは、一方で止まらぬ
少子化とのアンバランスによって近い将来起こるであろう年金制度の崩壊のその前に、高齢者の「働く意欲」を
休むことなく持続させ、成長に欠かせない労働力として構造化しようとするものだ。

もし「70歳定年制」が実現するなら、やがて80歳定年になり、いやもう定年などない「死ぬまで労働」の時代が
待っているのだろうか。リタイアもなく、休むことなく働き続けさせられる人間の一生というもの。

では私たちの「芸術」はどうなのだろう。日本という近代では芸術は、金のためではなく貧しくとも好き勝手な
ことに没頭して、気ままに自由で定年なもないし完成も終わりもない。その生が長くともあるいは短くても、名声
を得ようと悲劇的だあろうと芸術家とはそのような人間なのだと、世間では一応このように受けとめられてはきた。

でもその近代が解体され、「現代」も崩壊してしまった今。現代以後の「美術」は「アート」と名を変え高度に
産業化し商品化し日常化しエンターテインメント化した。アートワールドやアートマーケットで作品が評価さ
れ売れることが、アーティストにとってのステータスともなった。ここではアーティストもまた日々ビジネスの
世界に身を置いていることになる。

もともと芸術家にとっては、ハンナ・アーレントが区別したような「労働、仕事、活動」に明確な境界も意識的な
使い分けもなかったはずだ。そのどれでもであり、かつそのどれかだけではない、という生き方とでもいうのだろ
うか。しかし今、かつてネグリとハートが指摘したような知識や情報、コミュニケーション、関係性といった
「非物質的労働」が、直接何かを生産製造するような物質的労働をも統御し支配するようになってしまった。
労働の非物質化である。

そこでは、どこまでが「労働」でどこまでが「生活」なのかの区別が付かない。ちょうど正に「アート」がそうだ。
労働、仕事、活動、そして生活。それら全てを「アーティスト」は一体化しようとしているのだ。これこそ全能的だ。つまり、〈生の労働化〉をアーティストは身をもって証明しようとしているのだ。ひとによってはこれを
「やりがいの搾取」とも言うが。なんと残酷で現在的な生だろう。

「人生100年時代」のアーティストは、100年もの間、制作を続け発表し続けて行くのだろうか。超高齢化社会の
中で「死ぬまでアート」は、はたして可能なのか。物質化と非物質化に引き裂かれながら、同時にやりがいは死ぬ
まで搾取され続けるだろう。

もし働くことなく、労働することなく、仕事することなく、活動することなく、そして生活することもなく。
それでもちゃんと生きていて、ただそこに他の全てとはまったく異なる《芸術》があるとしたなら、それは一体
どんな《芸術》なのだろうと思う。いつか見てみたいし、作って見たいものだ。芸術の死の前に、生あるうちに。