元村正信の美術折々/2018-05-09 のバックアップ差分(No.1)


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美術折々_146
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どれもが「作品」であり 「作品ではない」時代に
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5月7日(月)付 日本経済新聞夕刊文化面に『商業とアートの境目薄れる 広告写真、作品になる時代」』と題して最近注目される広告写真家たちの“作品性”に焦点を当てた記事が載っていた。

コマーシャルをいまだ「商業」といいながら、一方でちゃんと芸術を「アート」と言うその表記のアンバランスさに、思わず苦笑いしながら読んだ。見出しの通り、その両方の境目が薄れつつあると言うリポートである。

だがコマーシャル、広告だからといってそこで起用されるクリエイターたちに、そもそも作家性や作品性がないことはない。ただその名が表に出ないか逆に強調されるかの違いにすぎない。無名か有名か、新進・若手か、
ベテラン・キャリアかの違いはあっても、作り手としてのクリエイターがそこにいることに何ら変わりはない。

コマーシャルとアートの境目が薄れるという。その先にあるのは、コマーシャルもアートでありアートもコマーシャルであるような区別のつかない世界だということになる。コマーシャルは営利目的のためのメッセージで、アートは非営利で自由な表現の方法であるというような区別はすでに錯誤であり、とっくの昔に破綻している。現在ではコマーシャルが非営利的に表現されることもあるし、アートが企業利益のためのフロントに積極的に
起用されるそんな時代である。

確かにいま世界はそうなっている。「アート」の定義や概念を問うことを宙吊りにしておけば、曖昧にしておけば、「アート」は何にでもなれる。それがコマーシャルでもスポーツでも、福祉でも農業でも金融でもいい、
何とでもコラボはでき、何にでもなれるはずだ。オリンピックがいい例だろう。アマチュアの祭典がいつの間にかプロスポーツ化し、商品化し金融化した。アマチュアとプロの境目はすでにない。ただ〈能力〉の〈表現〉の違いがあるだけだ。

ではなぜ、いま「作家性や作品性」がもてはやされ、クローズアップされるのか。それは広告もデザインも、「アート」になったからだ。広告のクライアントである企業自体が、「作家」でもあり「作品」と同格になったからだと僕は思う。だから顔は、ネームバリューは、前面化しまた全面化するのである。

企業というものが芸術家にもなった時代だということは、そこではこれまでの「芸術家」像はほとんど崩壊したことになる。あの村上隆の『芸術起業論』と同じように、一人の人間がアーティストと名乗ってみたとしても、企業そのものの生産や経済活動もまた、アーティストあるいはアーティスト集団と名乗れる時代においては、
同格、同じなのである。

つまり《作品》という概念もまた崩壊してしまったと言うべきだろう。それ自体が個のどんなに純粋な意志と
思考のもとに作られたとしても、いったん市場という社会に持ち込まれたとたんにその自律性は、熾烈な経済
活動の力に腐蝕され続けることになる。いやそのような市場の力に背を向ければ、このグローバルな資本主義のもとでは金(カネ)など稼げないことが誰しも分かっているか。だからこの記事の見出しの「作品になる時代」というのは、逆に〈作品にならない時代〉と言うことでもできるだろう。

それは僕みたいに都市の喧噪の中を右往左往しながら、異境のような場所で日々暮らしていると思っている一人の制作者ですらそうなのだ。じぶんで絵を描いていながら、作品を作っていながら、同時に「作品」というものの概念の崩壊を感受すること。

すでに、なんでもが「作品」であり「作品ではない」のだとするのなら、いや「商品」でも「遊び」でもいいのだが。私たちはそれらをどう表現し、どう区別すればよいのだろうか。あるいは区別できるのだろうか。そこにある正体、何か得体の知れないものについて、僕はさらに想像をたくましくしたいと思う。その力をもって
《作品》というものを問いつめたい。それを腐蝕しようとするあらゆる疑惑に抵抗したいと思う。

だれもが写真を撮れる、作品をつくれる。これはたしかに幸福なことかも知れない。それが不幸なことではないにしても、ただ僕はそれが〈幸福〉だという意味を考えるのだ、《作品》をつくりながら、その無力さをも。