元村正信の美術折々/2018-03-21 のバックアップソース(No.1)

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美術折々_138
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安部義博 ・ 2 0 1 8
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たとえば写実的な絵画を前にして、余りのその細かさにじっと食い入るように見る時がある。とくに最近は
「超絶技巧」などともてはやされ、それを駆使しリアルさを追求する画家たちの人気も高いのだが、これらの
技巧への執着に対する敬意の念だけを除いてしまうと、そのような絵の多くがモチーフの凡庸さや主題の俗っぽさにいかに拘泥しているのかがよく分かる。

一方そういった絵の対極にあるのが、いまアートスペース貘で開かれている個展、安部義博の絵画である。

最近の安部義博の絵画については、僕もこのブログでこれまで二度ほど触れてきた。まだ彼の絵に接したことのない方は先にあげたような現在の写実絵画の、いわば〈奥行きのなさ〉をイメージした上でこの安部義博の絵画を見られるといい。

なぜなら、ほとんどの写実絵画の分かりやすさからくる物足りなさに比べると、絵画というもののみが持つ
〈混沌〉さを、理解への遥けさ、困難さといったものを、彼の絵は備えているからだ。ご覧になればわかると
おもうが、まずその激しい筆致である。描いては打ち消しまた描く。そうして彼の絵筆は画面を〈転戦〉する
ように、絵画というテロスなき荒野を踏み進みながら絶えず肯定と否定を繰り返す。さらに独特の色彩の混濁が、錯綜が、その踏破への行為というものをいっそう過激にしているのだ。

ずっとまえに僕は安部から、デ・クーニングやハワード・ホジキンといった画家たちへの関心を聞いたことがあった。だからといって彼がいわゆる「抽象表現」にいまもって拘束されているわけではないはずだ。むろん
抽象的な描き方はあるにしても、いわゆる「抽象絵画」などという様式の踏襲やその素朴な現在進行形はすでにありようもない。それでもなぜ彼の絵画は具象化せず具体的な象(かたち)を結ぼうとはしていないのだろう。

ここからは僕の独断だが、おそらく彼のなかには、ある種の〈風景〉が幻視されているからではないだろうか。そう「幻視」だ。幻視といって語弊があるのなら、彼にしか見えない〈風景〉が見えているといってもいい。
つまりある風景が幻想されることによって、実在しない風景が、逆に描かれるべき〈絵画〉として現前しているのではないだろうか、ということだ。

だから絵筆は性急に運ばれながらも、けして具体的なかたちに行き着くことはない。これでも、あれでもない。ここでもない、もっとどこかへ。とうぜん彼じしんしか見えていない〈風景〉に向かってである。絵画という
ものもまたじつに不自由なものだ。

いま見えている風景がありながら、それを絵画にしようとすれば絵画は必ず不足するしかない。たとえそれが
どのような風景であれ〈絵画〉はそれと乖離してしか現れない。つまりどこまでも、安部義博の絵画というものは具体化せずに、私たちの目の前には〈抽象的に現れる〉しかないのである。

しかしそのことによって安部義博の絵画が、じつはどれほど《リアルな奥行き》をもってそこに在るのかを、
確かめてみてはいかがだろう。容易に理解しやすい写実的な絵画とはまったく異質の過激さがここにあるから。

                                  (同展は 3月25日[日]まで)
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