元村正信の美術折々/2018-02-06 のバックアップの現在との差分(No.1)


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美術折々_129
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感性の錬磨のゆくえ
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2020年の東京オリンピック・パラリンピックをまえに、いよいよ首都東京に拍車がかかる。オリンピックは
スポーツと同時にまた「文化の祭典」でもあるから、国家的に文化芸術面からも積極的にこれを盛り上げて
行こうという訳だ。
2020年の東京オリンピック・パラリンピックをまえに、いよいよ首都東京に拍車がかかる。そのなかで、オリンピックはスポーツの祭典であると同時に「文化の祭典」でもあるから、国家的に文化芸術面からも積極的にこれを盛り上げて行こうというものがある。

たとえば東京都とアーツカウンシル東京が取り組む、2020年に向けての 『Tokyo Tokyo FESTIVAL 企画公募』もそのひとつ。2月1日からエントリーが始まり、「ジャンルを超えて芸術文化の企画を募集」するというもの。もちろん国籍、年齢、ジャンルや経験は問わず、反社会的勢力以外なら個人でも企業でも、子どもでも大人でもだれでも応募可能である。
たとえば東京都とアーツカウンシル東京が取り組む、2020年に向けての 『Tokyo Tokyo FESTIVAL 企画公募』もそのひとつだろう。2月1日からエントリーが始まり、「ジャンルを超えて芸術文化の企画を募集」するというもの。もちろん国籍、年齢、分野や経験は問わず、反社会的勢力以外なら個人でも企業でも、子どもでも大人でもだれでも応募可能である。

「芸術文化都市東京」を世界にアピールできるような企画内容として、「あらゆる人々が参加できる」こと、「アートの可能性をひろげる」ものなどが、どうやら期待されているらしい。「ジャンルを超えて」というだけあって、音楽、演劇、美術、映像、マンガ、ゲームやファッション、建築、食文化等々。とにかく、健全健康、安心安全なら、なんでも受け付けます、というところか。

この国の「文化芸術基本法」によって推進される「芸術文化の振興」は、さまざまな文化資源を〈2020年〉に
向けて結集させる。

イギリスの文芸批評家、テリー・イーグルトンは『文化とは何か』の中でこう言っている。「国家はまえもって、市民の感性を錬磨
イギリスの文芸批評家、テリー・イーグルトンが『文化とは何か』の中でこう言っている。「国家はまえもって、市民の感性を錬磨
していたはずだ。そしてこの過程こそ、わたしたちが文化として知っているものなのだ」と。

だとするなら、文化資源として錬磨された私たちの「感性」は、こんな時こそ「ジャンルを超えて」、「あらゆる人々が参加できる」そして「アートの可能性をひろげる」ために東京において芸術文化は今こそ企画され創造されるべき、だということになろうか。

だがすでに1990年3月、つまり現代美術が崩壊する以前に、美術批評家の藤枝晃雄は「あらゆるものが芸術に
なるということは、実にすべてのものが芸術にはならないと自覚されるとき、そこにのみ意義がある」
(『現代芸術の状況』)と言い切っていたことを忘れるべきではない。

もし、「すべてのものが芸術にはならない」とき、私たちの「感性」は、「芸術文化」は、そして「アート」は、いったいどのようなモノになれるというのろうか。このことを考えずして芸術も文化もありえないように
もし、「すべてのものが芸術にはならない」とき、私たちの「感性」は、「芸術文化」は、そして「アート」は、いったいどのようなモノになれるというのだろうか。このことを考えずして芸術も文化もありえないように
僕は思うのだが、いかがだろう。