元村正信の美術折々/2018-01-17 のバックアップ(No.1)


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美術折々_126

非現実的に実現するということ

やっと咳も抜けた。少しずつ心身が快復していく感覚。遅ればせながらの始動である。

こうして徐々に、いつも生活している虚偽と欺瞞にみちた社会やそこから多少ともなりわいを得ることに復帰して行くじぶんを見ていると、おそらく 「誰もが活きいきと輝く安心安全で健康な社会」というものが、逆に多くの人がどこかで感じているはずの様々な生の不全感を、ネガティブなものとして捉えたり、あるいは生のマイナス要因にしたり、そこからこぼれ落ちるものを非生産的・非創造的だとする力に、私たちは巧みにコントロールされていることが改めてよく分かる。

たとえば、アートの社会化あるいは社会のアート化の流れもそうだ。コミュニティーに開かれ機能するアートの社会的役割は、そのまま社会というものが感性的、創造的にも活発化、活性化するための方法としてますます
積極的に採用されている。

かつて アドルノは、「芸術は現実の和解を犠牲にして、和解を非現実的に実現する」(『美の理論』1985)と語っている。

ここで「現実の和解」とは、いまでいうなら「アートの社会化」といってもよいだろう。つまりアートの社会化を犠牲にすることによって、もしかしたら〈アート〉というものは、アートによって社会との和解を非現実的に実現できるのだ、アートになることができるのだ、と言いかえることもできるのではないか。

「和解を非現実的に実現する」というのは、おそらく アドルノが〈芸術〉というものに託した〈社会との関係〉のことであろう。芸術に残された希望、あるいは絶望でもいい。もしくは「なりうるかもしれない状態」に期待してのことだったと、僕は理解している。

生の不全感というものは、いまだ〈芸術〉をもその根柢から支えているのではないだろうか。芸術が、非現実的に実現できるものとは何か。いままであり得なかったもの。それは発明でも発見でも、表現でもいいのだが。
いままでこの世界になかったもの、つまり非現実的な存在であったものを実現する、現実のものとするという
のを、私たちは〈芸術〉に期待しているのではなかったのか。

何かわれわれの知らないもの。現実の変形として〈芸術〉は現れるのではないだろうか。社会的に機能する以前に、社会の否定的変形としての《美的経験》を、私たちの〈芸術〉は、なおも試されているだと僕は思う。