元村正信の美術折々/2018-01-12 のバックアップ(No.1)


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美術折々_125

生の処方箋

新年を迎えたものの、年末からの風邪がいまだなかなか治らない。臥せた体を起こして、小雪の舞う今朝、やっと近くの医院へ行ってきた。風邪で医者にかかるのも40数年振りのことだ。その待合室がまた寒かった。震えながら一時間ほど待って無口な医師の、型通りのみじかい診察を終え処方箋を受け取り医院を出る。僕の症状は
風邪なのか。医者は何もいわなかった。お大事にとも何とも。僕がやはり風邪ですか?と聞けば、医者はそう
ですね、きっとそう答えたに違いない。

寒けに震える僕はいったい何を期待していたのだろう。もしかしたら、風邪とはちがう別の兆候を聞きたかったのだろうか。それに比べ、薬をもらいに立ち寄った調剤薬局の暖房のあたたかったこと。僕はその短い待ち時間のぬくもりに、おもわず救われるような気がした。

思想家の千坂恭二が、「思想とは結論の出ないことを考えることでもあり(だから、思想は生の処方箋にはならない)、そもそも何をしているのか分からないこと」であると言っていた。ではわが「芸術」はどうなのだろう。芸術は、生の処方箋になりうるか。

俗に「毒と薬」というが、芸術は生の処方箋になりうるどころか、むしろ芸術という中毒に陥っても良薬にはならないだろう。むろん芸術療法という治療方法もあるにはあるが。芸術家じしんにとっては、快癒からどれだけ遠ざかれるかどうかによってみずからの《病い》というものの深さを知ることによって、だれにも分からない「芸術」というものを生むことができるのだから。

むしろ「芸術」は快癒不能であり、予定調和的な「生の処方箋」を否定し破棄することによって、薬のちからではなく逆に自らが毒として立ち振る舞うことができるか否かこそが、問われているではないだろうか。

咳込みながらの、新しい年の始まりである。いずれにしろ、できれば〈処方箋〉などというものとは無縁でありたいものだ。