元村正信の美術折々/2017-12-08 のバックアップ(No.2)


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美術折々_121

語り得ないもののための黒いコート

あのランボーに「私はひとりの他者である」(『見者の手紙』)という名句がある。
光野浩一展「STAND ALONE」を見ながら、僕はこの言葉が含み持つ意味をそこに重ね合わせていた。

これまで光野の作品を貫いているのは、ランボー的という言い方が許されるなら〈自己と他者〉をめぐっての
関係、そこでの違和や喪失感あるいは精神と肉体との分裂といった、主体の疎外や心の闇を解こうとする、
光野自身のことばで言うなら「精神的な死を回避するための」誠実な問いかけであり、すぐれて〈美術〉的な
試行ではないだろうか。

今回、まず画廊の四方の壁に目をやると、真っ白な多数の角板が様々な角度でランダムに掛けられていて、その表面には道路や建物跡を暗示するよう窪みがある。そして床には、少し浮くようにして設置された大きな白い
十字路のような板があり、またその表面にも道路の凹み、住宅やビルのようなミニチュアが無数に配され架空の町並みをなし、さらにその交差点上にはこれらのジオラマのスケールからすれば巨大な、ともいえる黒く部厚いゴム製のトレンチコートが突き立てられている。

もしかしたら光野は、一面雪景色とも見れる無垢で静謐な町に、スウィフトのガリバー旅行記のような巨人を、
いや生身の肉体を欠いたコートのみの、空洞としての「虚人」を立たせてみたかったのかも知れない。
一体ここにはどんな風が吹き抜けているのだろう。だがこのリリパットの白い大地には人影の微塵もない。
私たちは、かつてそこにあったかも知れないゴーストのような都市の幻影を見せられているのだろうか。

光野はつねづね、自己と他者、そして社会というものを考えるときに、「俯瞰」ということばを使っている。
おそらくこの白いジオラマも、私たちの社会を見おろすようにして立つ黒いゴム製のコートも、そのための
「装置」と位置付けられるだろう。

しかしそれでも今回の、硬く黒いゴムのコートが持つ、人を拒むような冷徹な強さ。ゴムという弾性や絶縁性を踏まえてもなお、そこある孤立した仮象としての空洞の、主体の抜け殻としての不在のコートは、何を暗示しているのだろうか。身を包むためのコートであるはずなのに、その主はここにはいない。

ランボーが 「私はひとりの他者である」といったとき、「私は」と発した時、その瞬間私は他者じしんの「私」となったはずだ。

僕は思うのだ。光野浩一にとってこの「コート」は、 〈私という他者〉 であると。ジャック・ラカンは、人間が他者にならねばならぬ必然性に思いをめぐらしていた。おそらく 光野もまた、自己という存在にさいなまれながら他者の語らいを中を生きるために、彼にとっての「作品」は、きっとこのようにしてしか在りえないので
あろう。まさに彼が望んだように、そこには「語り得ないものの気配」が色濃くただよっているのだった。
  
                            (同展はアートスペース貘にて、12月10日迄)


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