元村正信の美術折々/2017-11-23 のバックアップ差分(No.1)


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美術折々_119
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いちるの望みとしての「芸術」
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「人生百年」というフレーズが近頃やたらと目立ってきた。なぜだろう。なぜそこまで生きねばならないのか。
いったい、人は何歳まで生きねばならないのだろうか。一億総「百年」活躍社会の到来か。

人生といえば、かつては「芸術は長く人生は短し」などと俗によく言われたこともあったが、これももう旧き
青春の諭しにすぎなくなってしまった。

もともと古代においてヒポクラテスが言ったのは「芸は長し、生涯は短し、時機は速し、経験は危うし、判断は難し」という医術を引き合いに出しての格言だったと言われている。いわゆるギリシア語のテクネーからラテン語のアルスを、つまり知や技、技術を意味した語を日本では「芸」と翻訳したわけだ。
むしろ芸(藝)を「学問」と翻訳した方よかったのかも知れない。「芸」が日本という近代以降「芸術」として純化、自律化することによって、いつしか「芸術は長く人生は短し」というふうに転化し俗化したと思われる。

しかし今となっては人生百年。逆に「芸術は短し人生は長し」と言い替えた方がいいのかもしれない。いや
そんなことはない、と言われそうだ。現にいまアートスペース貘で個展を開催中(11月26日迄)の齋藤秀三郎氏は生涯現役、バリバリの95歳。齋藤先生に「芸術は短し」などと言ったら、叱られるかも知れないが。

たしかに何かを極めようとするには長い時間がかかるだろう。さらにどれほど時間を費やしても終りというものはない。しかも芸術はそれじたいを極めずとも、時にすぐれた作品を残すこともある。それはきっと人ひとりの人生の問題ではなく、わけても芸術というものが、それじたい明確で《鮮明な像》というものを私たちに差し示してはくれないからだ。いまだ〈定義〉しえないからである。だからこそ、わが芸術は、《答えがないもの》に答えを出す。評価をつける、価格を付ける、地位と名声と金を与えて芸術として認知しようとする。それが制度であり社会というものだ。

そうやっていつしか芸術は、真実とほとんど見分けのつかない虚構となり虚偽で一杯となる。あふれる芸術
「作品」といわれるモノの中で《真性の芸術》が理解しがたく見えにくいのは、そういう芸術のシミュラクールによって、芸術もまた〈整形〉されているからだ。同時に私たちはそのような芸術を(創ること、見ること、
聞くこと、触れることを含め)消費し続けてやまない。

さてさて、そのような消費人生百年時代の私たちの「芸術」は、これからどのようにそれに抗い、芸術自らを
どう〈変形〉しうるのだろうか。そんな長くも短し芸術に、いちるの望みを託してみたい、というものだ。