元村正信の美術折々/2017-08-02 のバックアップ(No.2)


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美術折々_108

スキマ花火

昨夜の花火大会を窓越しに見ながら、横にTVを置き音声を消して花火の生中継と見比べていた。

「生中継」といっても、テレビの画像は実際に打ち上げられた花火より5秒ほど遅らせて流れている。
つまり厳密にはひとつの花火を、ふたつ同時には「見れない」ということだ。知られているように、いわゆる「放送事故」、生放送での突発的事態への対策としてわざと日本国内では5秒〜5分程度遅らせて「生中継」
しているからである。

しかしこの、生中継や生放送といいながらのタイムラグ。目のまえで実物を見ていながら、それを実際には5秒
遅れの画像で見るということで生じる奇妙な〈スキマ〉は、いったい何なのか。このことは、画像という
もうひとつの「現実」が、すでに「もうひとつ」ではなくなっているということだ。ズレていながら、ズレを
意識させずに、いまここにあるものとして感じられるという幻想。

「どんなに近距離にあっても近づくことのできない」ものを、かつてベンヤミンは「アウラ」と言ったが、
それは現代の芸術がそれを喪失したことを指摘してのことだが、〈スキマ〉という介入は「いまここにしかないもの」の〈喪失〉を、もっと積極的にシステム化し、制度化しているように思える。

「5秒のスキマ」は、そのまま「生(ナマ)、LIVE(ライブ)」と公表、公言されているものの虚構性の正体でもある。むしろ私たちはそのようなスキマを、このような現実を、生きざるを得ない。たしかにテレビの360度
カメラは、花火をいろんな角度と視点から見る者を楽しませてはくれる。だがそれも、「5秒のスキマ」があって初めて成り立つものだ。

ここにも世界の深淵を見る、というのは大袈裟が過ぎるだろうか。あの花火のように多くの人が見ていながら、そこには誰も「近づくことのできない」、逆説的な深い亀裂が走ってはいないか。もちろんそのような亀裂を
つくったのは、私たちじしんではあるが。この「5秒のスキマ」は、もう永遠に埋めようがないのだろうか。

見えないスキマとしての5秒。いやもうそれは隙間とすら言わないのかも知れない。