元村正信の美術折々/2017-05-31 のバックアップ(No.1)


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美術折々_99

All or Nothing  芸術という未払賃金

「美術 と おカネ」ということでいえば、オランダのアーティストで 経済学者でもあるハンス・アビングは、
かつて『金と芸術』(grambooks 、2007年)という自著の中でこう述べていた。

「ほとんどの場合、アーティストは無私と見られるか、商業的と見られるかのどちらかである」。

もちろんここでいう「無私」とは、たんに利己的ではないというよりも、必ずしも金銭的な「利益」に
こだわらない生き方というか、いわば「非利益的」に作品を生み出すものとしての「無私」という意味だろう
と僕は思う。

しかし実際にアーティストは、そのように無私であるか、あるいは商業的かのどちらかであるにしても、
そのどちらでもあるというアーティストもいるし、またそれぞれへの偏りのどこかに足場を置いて生きざるを
得ない。

アーティストというものが、どのように生きていようと、例えば、さまざまな助成や贈与、あるいは寄付、
献身によって生きながらえていようと、なんらかの稼ぎ、所得を維持しなくては「作品」は生まれては来ない。

スイスの経済学者 ブルーノ・フライは「外的報酬は目的ではなく、芸術を制作するところの副産物である」と言ったというが、もしその生涯においてアーティストが、幾ばくかの蓄財やステータスを得られたにしても、
その報酬を「副産物」とするには余りにも哀しすぎはしないか。

外的報酬は確かに制作の結果ではあるだろう。だが、いっぽうで内的報酬を「自己の喜び」や達成感といった
自己満足として充足させていいはずはない。

マルクスがいったように「資本の自己増殖の秘密とはとどのつまり、一定量の他者の不払労働を資本が
自由に処分できるということのなかに解消するのである」(『資本論』第一巻 下)のなら、芸術もまた
不払労働という他者だ。

芸術の、美術の、その始まりの制作(無償労働)に端を発した「剰余価値」が、もし「副産物」であるなら、「芸術」という果実は、いまもなお〈搾取〉の格好のえじきに変わりはない。

芸術における莫大な、無限にもひとしい「未払賃金」こそ、芸術をささえる「おカネ」の秘密なのでは
ないだろうか。