元村正信の美術折々/2017-04-19 のバックアップの現在との差分(No.1)


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美術折々_94
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あらたな「風景」の出現と喪失
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年に二回、ちょうどいまの四月と秋の十月に、手元に届けられる美術同人誌がある。

東京・国分寺に発行所を置き、北九州市出身で画家の牧野伊三夫が発行人をつとめる、その名の通り
『四月と十月』だ。同人の作品と文章がセットになった「アトリエから」の近況報告や雑報、他に8本程の
連載寄稿文からなる。

その中で僕が好きな連載のひとつに、鈴木伸子の『東京風景』というのがある。
彼女はフリーの編集者なのだが、また同時に生まれ育った東京という町への愛着ある眼差しを持った
「風景」の冷静な観察者でもある。
彼女は、雑誌『東京人』の副編集長を経て、いまはフリーの編集者なのだが、また同時に生まれ育った
東京という町への愛着ある眼差しを持った「風景」の冷静な観察者でもある。

先日届いた同誌36号の『東京風景』第28回には、「都心の建設工事現場」と題して、渋谷駅前の銀座線の高架の向こうに並び立つ色とりどりのクレーンの、その迫力ある風景に思わず立ち止まった、と書かれてあった。
先日届いた同誌36号の『東京風景』第28回には、「都心の建設工事現場」と題して「渋谷の駅前で、銀座線の
高架の向こうに並び立つ色とりどりのクレーンを見て、その迫力ある風景に思わず立ち止まった。ここには
数年後、何本もの超高層ビルが建っているのだろう」と書かれてあった。

僕が暮らしているのは福岡なので場所も違うが、じつは僕もこのタワークレーンのある工事現場の前で、
いつも立ち止まる一人なのだ。身近なところでいえば、地下鉄赤坂駅周辺もそうだ。
東と西で二つの新しいタワーマンションがそれぞれ赤坂門の交差点を挟み、見下ろすようにして建設中だ。

そのひとつ。駅上の明治通りから北へひとつ目の道を左へ入ると、ちょうど工事現場の裏手入り口すぐに、
そのタワークレーンが建物に沿って張り付きながら、支柱ともども空に向けて高々と垂直に延びている。鮮やかな色の躯体。そこを通るたびに足を止め、はるか上をしばらく見上げている自分がいる。なぜなのだろう。

僕にとってそれは、迫力や威圧感あるいは躯体の美しさへの関心とも少し違う。たぶん僕はクレーンのあの天辺に据えられた箱型の運転席の中を見ているのだと思う。いや実際にはそこを見ることは出来ないのだから、
おそらくあの狭く小さな空間から、運転者ひとりだけが見渡すことのできる、かりそめの、その風景の感受の
仕方を想像しているのだと思う。
僕にとってそれは、迫力や威圧感あるいは躯体の美しさへの関心とも少し違う。たぶん僕はクレーンの天辺に
据えられた箱型の運転席の中を見ているのだと思う。いや実際にはそこを見ることは出来ないのだから、きっとあの狭く小さな空間から運転者ひとりだけが見渡すことのできる、かりそめの、その風景の感受の仕方を想像
しているのだと思う。

これはもちろん憬れや羨ましさとも違う。むしろ「風景」の喪失のことなのだ。次々と立ちはだかるように、
私たちは何かを仕組む。たえず光りは、さえぎられる。「風景」の喪失とは、それぞれの原風景を失うことではない。そうではなく、次々と新たな「原風景」が何かを遮断するようにして建設され続けることなのだ。
だから絶えず今ある「風景」は喪失され続けるしかない。

おそらく「望郷」というものも、遠く離れた懐かしさの念からではなく、「いまここ」にはない、という喪失感のことではないだろうか。はるか頭上のタワークレーンの高貴な運転者たちもまた、そのような「風景」の喪失を、少なくはない痛苦とともに誰よりも先に自らが目撃しているに違いない。
おそらく「望郷」というものも、遠く離れた懐かしさの念からではなく、「いまここ」にはないという喪失感のことではないだろうか。僕のはるか頭上の、タワークレーンの高貴な運転者たちもまた、そのような「風景」の
喪失を、少なくはない痛苦と闘いながら、誰よりも先に自らが目撃しているにちがいない。