元村正信の美術折々/2017-02-12 のバックアップ差分(No.2)


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美術折々_86
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「塔」から離れて
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2月2日(木)付 日本経済新聞 朝刊文化面に、佐賀県内の板金塗装会社社長の馬場憲治という人の寄稿文が
載っていた。

僕は知らなかったが、この馬場氏は佐賀では有名な方らしい。「佐賀のエッフェル塔」として地元では親しまれている、この塔の制作者なのだ。見たことのある人もいるだろう。その名のとおり「エッフェル塔」というだけあって、あのパリの本物を14分の1サイズ、高さ23mの大きさで「再現した」ものだという。
僕は知らなかったが、この馬場氏は佐賀では有名な方らしい。「佐賀のエッフェル塔」として地元では親しまれているこの塔の制作者なのだ。見たことのある人もいるだろう。その名のとおり「エッフェル塔」というだけあって、あのパリの本物を14分の1サイズ、高さ23mの大きさで「再現した」ものだという。

何でも今から40年以上前の、20代半ばに初めてパリの本物を見て「心から憧れ、つくってみよう決意した」
そうだ。廃材などの鉄板を使って「私がつくった」というから凄い。1982年の初代の塔から、1999年に完成
した現在の塔まで約53トンの鉄鋼を使ったという。そこに注がれた技術はもちろん、その情熱とそれに費やした私財は半端ではないはずだ。

僕が興味を持ったのは、この「作品」が何より「佐賀のエッフェル塔」として根をおろしていることだ。すでに完成から18年が経つ。ひとりの人間が一徹なほどに手放さないでいる、無為と作為が織りなすものの痕跡。
これを、まさに「アート」などと、やぼなことは言うべきではない。これもまた「近代人の模倣」のひとつではないだろうか。崇高なる「塔」へのあこがれが凝縮されているようだ。

「塔」というなら僕にはもう一つ、ずっと気になっている塔がある。以前、TVで見て忘れられないでいる長崎県佐世保市にある通称「針尾無線塔」だ。これもよく知られているらしい。300m置きに正三角形に配置された3本の塔があり、各コンクリート製、高さ約135m前後、基部直径約12m、厚さ76cm。1922年に旧日本海軍の無線塔として建てられ、すでに20年前、1997年に電波塔としての役目を終えている。

その後、2013年に国の重要文化財に指定され、現在は「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」として一部
は一般にも公開されている。現存する自立式電波塔としては高さ、古さとも日本一らしい。完成からすでになんと、95年もの歳月を刻んでいる。今後地元では「文化財」としての、この塔を中心に一帯の公園整備化等を計画しているという。

ここで僕が惹かれるのは、当初軍事目的だった塔が、今では何の機能も持たない「純粋塔」として残ってしまったということだ。基底部から突端部までゆるやかな円錐状に伸びる、その実に無駄のないストレイトな美しさ。一度はこれを、巨大な「彫刻」と呼んでみたい気もするが、それは敢えて控えておこう。
ここで僕が関心を持つのは、当初軍事目的だった塔が、今では何の機能も持たない「純粋塔」として残って
しまったということだ。基底部から突端部までゆるやかな円錐状に伸びる、その実に無駄のないストレイトな
美しさ。一度はこれを、巨大な「彫刻」と呼んでみたい気もするが、それは敢えて控えておこう。

しかし、「文化」というものは何故にこうも、本来そうでなかったものを内面化される力を持つのだろう。「塔」だってそうだ。フロイトが言ったように、なぜ文化は攻撃性を自らの中心に取り込み、内面化してしまうのだろうか。「良心」に変えてしまうのだろうか。
しかし、「文化」というものは何故にこうも、本来そうでなかったものを内面化させる力を持つのだろう。「塔」だってそうだ。フロイトが言ったように、なぜ文化は攻撃性を自らの中心に取り込み、内面化してしまうのだろうか。「良心」に変えてしまうのだろうか。

もし今も「芸術」というものが、そんな良心というものへの、やましさへの抵抗を宿しているのなら、
「芸術」はそんな「文化」というものと、どこかで対立する態度を取るべきではないのだろうか。
それもいまだ「芸術」が可能だとしてのことなのだが。