元村正信の美術折々/2016-07-01 のバックアップ(No.2)


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美術折々_60

ある飛躍の、かたち

先月24日(金)の陸上日本選手権。ハンマー投げの室伏広治が事実上の「引退を表明」した。41歳。
ハンマー投げの選手としての長年の活躍や戦績は、すでによく知られる通りだ。

翌25日(土)の新聞各紙とも彼の記事を大きく掲載していた。その中で目にとまったのが、朝日新聞朝刊
スポーツ面。室伏広治は自らの競技人生を振り返りながら、同じハンマー投げの名選手であった父・重信の
競技への姿勢を見てきた影響が大きい、とした上で次のように語った。 

 「父は肉体を超えて何かをつかもうとしていた。それがスポーツで一番美しい瞬間だと思う」と。

室伏広治にとって、室伏重信は父でありながら師でもあった。つまり、ずっと鏡像関係にあったということだ。
おそらく彼は、「父=師」というものを通して、ある核心をつかんでいたように僕には思える。

「肉体を超えて何かをつかもうと」することとは何なのか。肉体を使うスポーツ自身が、肉体を超えるとは
どういうことか。

どんなスポーツにとっても〈肉体〉は、離れた別の次元にあるわけではなく、同じ平面上にある。
なぜ、肉体を超えなければならないのか。というより肉体の〈彼方〉に、もしかすると肉体にとどまらない
〈領域〉、すなわち室伏の言葉でいえば 「美しい瞬間」というものがあるということになる。

一般によくいわれるのは、アスリートたちが見せてくれる競技の、躍動する肉体の、スポーツが持つ「美しさ」であろう。しかしこの室伏父子にとっての 〈美しい瞬間〉というのは、突きつめれば 〈不可視〉の瞬間
なのではないか。

「肉体を超える」とは、肉体を捨て去ることでも、肉体を脱することでもないだろう。
自らが肉体でありながら、肉体を持ちながら、肉体ではない、肉体を離れる一瞬の〈不可視の領域〉。
そういう反立的な瞬間あるいは次元を、「つかもうと」すること。

なぜ僕は、このような遠回りをして、いや室伏広治が自らの引き際に語ってくれた、すぐれた「核心」に
触れようとしたのか。それはやはり、ここに帰着するからだ。

「美術」を手放すことなく、「美術」を超え出ていく、というありよう。超え出てもなお 「美術」を手放す
ことなく問い続けること。「芸術」とは自己を超え出ていく意志であるなら、「美術」もまた、室伏父子が
見据えていた射程、すなわち自らを「超えて何かをつかもうと」する、 〈不可視の瞬間〉を見ようとする意志
に違いないのだ。

「美術」には、室伏の言うスポーツのような「美しい瞬間」はついに訪れないのかも知れない。
だがそれは「美」としてではなく、「美に抵抗するもの」をつかむために自らが飛躍することは、できるのではないだろうか。