元村正信の美術折々/2016-06-19 のバックアップソース(No.2)

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美術折々_58
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六月の、「博多」のある風情
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梅雨のなか、博多の町のあちこちでは「博多祇園山笠」の飾り山の山小屋が建ち、飾り付けも始まった。
もうすぐ七月一日も近い。そして「かき山」も始まれば、この町は「追い山」に向け、いつもとは異なる賑わいをみせる。

僕がかつて下呉服町で仕事をしていた頃。ずいぶん「山笠」を間近に見聞していた。特に御笠川に沿って下呉服から中呉服、上呉服町そして御供所町へと続く通りは、かき山笠が駆け抜ける順路の一部で、またいまも多くの寺が点在する寺町であり、そして旧職人町でもあり、細い路地のそこかしこには下町の風情がまだ残っている
ような界隈である。

その下呉服と中呉服町の御笠川寄りの辺りは祭りの間、かき山七流のひとつ「恵比須流」の山小屋と各町の詰め所もあちこちに建つ。ただこの恵比須流だけは、他の流よりひと月も早く、つまり六月一日に注連下ろしをする習わしがあり、この日に、かき山行事の初日を迎えることになる。夏のまえの、肌寒さもまだ交じるころだ。

それは梅雨入り少し前の、朝の舗道。カラン、コロン、カラン、コロン…と少し控えめな下駄の音が、一年振りに聞こえてくる。長法被を着た当番町の男達だ。この六月初めの下駄の響きには、まだ勇ましさはない。むしろ物哀しささえ帯びている。勇壮といわれる博多祇園山笠のなかで、僕がもっとも男達の哀愁を感じるときで
あり、静かな音(ね)の色だ。

この下駄の音も、七月に入り「お汐井とり」から「流れがき」をへて「追い山笠」直前になると、不思議なほどそれは高鳴り、時に蹴るように荒々しくも聞こえてくる。ひと巡りの眠りから覚めたものたちが、やがて心身の覚醒へ、勇壮へと纏められていくのだ。

下駄の音(ね)は正直である。履く主(ぬし)の心情を、町々にも伝えて行くのだろう。

それと僕がみた「山笠」には、もうひとつの物哀しさがあった。それは「山笠」と山をかく男達の関わり方で
ある。幼い頃からずっと続くもの、青年や大人になってから加わるもの、志願したもの、誘われたものなど、様々だ。ただ、ずっと続けるもの、いや正確に言うなら、ずっと続けられるものは以外とすくない。たしかに
若いかき手のみが持つ、美しさやからだから放たれる勢い、力強さはある。だが「続けられる」というのは、
何も年齢や体力、時間のことだけではない。

何が言いたいかというと、つまり「生きて行くということ」の難しさのようなもの。仕事をしながら、山笠をもこなすのはもちろん大変なのだが、それよりも、じぶん自身のことや、彼女、妻、子ども、親のこと、友達の
こと…他にも一杯あるだろう。もっと言えば、自分を含めた自分が関わるものたちの「生と死」の、いわば人生の屈折のありようなのだ。

なにも起こらなかった、というのはきっと嘘なのではないだろうか。それをごまかすか、隠すか、諦めるか、
によって次に進むべき路は、おのずと決まるはずだ。「生きて行くということ」は、この「山笠」の夏の、
ずっとずっと向こうにあるものなのだから。

だから、たまたまずっと続けられるというのは、山をかく男にとってきっと幸せなことなのだろう。また一方で、山から離れる、離れざるを得ない男の哀しさ寂しさは、ひとり遠くから眺める山笠にもあるのだ。それは
同時に山をかく、かき手たちの背中にも、からだの中にも滲み込んでいるからに違いない。それが、僕がみた
男達のもうひとつの物哀しさなのである。

あの六月の、始まりの下駄の静かな音(ね)の色はまた、祭りの後の、けだるい寂しさの、音(ね)の色にも
どこか似ていた。