元村正信の美術折々/2016-06-08 のバックアップ(No.1)


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美術折々_57

労働と生存をめぐって

6月6日(月)付 西日本新聞朝刊「国際・総合」面の[ジュネーブ共同]からの配信記事は、5日に行われた
スイス国民投票の結果を小さく報じていた。

この投票は、国民全員に最低限の生活ができるだけの一定額を毎月(大人ひとり約27万円)支給する、
いわゆる「ベーシックインカム」制度(最低限所得保障の一つ)導入の是非を問うものとしては、世界初の
国民投票である。地元メディアによると反対が76.9%で賛成を大きく上回り否決されたという。

スイス政府は、膨大な予算不足が見込まれることから反対を表明。経済界も「労働意欲がそがれる」と
反発していたらしい。

この予想された否決という「答え」は、私たちにとって「労働と生存」の一体的関係が、現在の資本主義社会の隅々にまで深く根を張っていることの証しでもあるだろう。それは逆に、労働しないことを選択した者、拒否
する者は、自らの生存が脅かされることを意味している。それほど個人の労働という「所有」は商品化され生活化され、労働と生存の、生命の関係は表裏一体となって当然のごとく啓蒙し尽くされ、充分に社会化されて
しまっているのである。

ネグリとハートがいうように、やがて「労働時間と非労働時間との区別が成立しなくなり」その結果、私たちの生存はおそらく全面的に労働化するはめになるだろう。では、労働と生存の「切断」は不可能なのか。
働かなくても生きていける社会の実現など不可能なのだろか。

すでにIT化や人工知能の進展によって人間が担ってきた近代的労働は、つぎつぎに機械化され無人化され、
非物資的に外部化され続けている。そのことは、限りなく人間自身の「労働」を不用とし、廃絶される方向に
あるということでもある。皮肉なことにマルクスが夢想したように。ただ、「労働」の不用、廃絶は同時に
また、私たちの「生存」にも向けられていることを知るべきだろう。

では、「芸術」にとってこの「労働と生存」は、どう受けとめられているのだろう。
これはまた改めて触れてみたい。