元村正信の美術折々/2016-06-01 のバックアップ(No.1)


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美術折々_56

あらかじめ失われた「自己」

革靴、シャツ、枕、下着、女性、人形などの〈モノ〉が、どれも紙に黒のコンテで、リアルに描かれている。

武田総章展 「身体考」のことだ。そのほとんどが、雑誌のグラビア写真をモチーフに描いたもの。
どれもみな「日々大量に生産され、消費されていくイメージとしての身体」だと作家はいう。あえてその色彩を捨象したモノクロームの単一性が、かえってフェティックさを強めている。

たとえば男性ものであろう革靴。きちんと揃えられた新品の一足の靴が、上から見おろすように描かれている
それだけの「絵」である。私たちの欲望を〈触発〉する商品としての靴を引用しそれを描くことで、武田は、
あふれる「欲望」というものをもういちど突き放し、冷徹に見つめ直そうとしているのだろうか。

武田総章は2年前の個展で 「風景考」と題して、やはり紙に黒のコンテで、身近かな「風景」を遠近感をもって
リアルに描き出していた。それらの風景は、当たり前のように思われ、広がっている既視感や日常の光景というものへの疑い、疑念として捉えなおされていたように、僕は記憶している。

今回の 「身体考」でもそのような問いは、私たちの「社会の関係性の網目」に浸透し食い込み、なおかつ捉え
どころなく浮遊し続ける「イメージとしての身体」あるいは「物」そのものへと向けられているように思える。それは同時に、そこからこぼれ落ちていく 生身の「私という身体」の欠落やそれらとの乖離といった、
否応なく私たちが抱かざるをえないある種の「不全感」であることを、武田はこれらの〈モノ〉を通していわば 「不在の身体」を描くことで「私と身体」という、いわば鏡像関係をも描いて見せてくれたのかも知れない。

そう、あのランボーの名句 「私はひとりの他者である」という言葉。そしてそれを引き出しながら、さらに
ラカンは「人間の欲望は他者の欲望でもある」と明言しているではないか。

武田が描いた一足の靴は 「私のもの」でありながら当然「他者のもの」でもあるのだ。なぜそれが可能なのか。これはなにもシェアし合っているからではない。なぜならそれは靴が、武田がいう「イメージとしての身体」性を担っているからである。自己は他者によって担われているからこそ、どこまでも靴は鏡像であることによってフェティッシュなものともなり、消費されるイメージともなりうるのだ。

最後に、武田の今回の作品の中からもう一点紹介しておきたいのがある。それは横たわる少女のような人形を
描いたものだ。この虚無と空虚に充ちた美しさは一体なんだろう。血のかよわぬ冷たさをたたえた身体。
おそらくこの少女も、靴と同様に、いやそれ以上に虚ろな鏡像なのだ。だから私たち見る者は、他者は、この
描かれた少女像の中に失われた身体、つまりそれぞれの〈自己〉を見いだすのではないだろうか。

だが誰よりもずっとまえに、武田総章によって、その「身体考」によって、これらの〈モノ〉たちはすでに
見いだされていたというべきか。

         [同展は、6月5日(日)まで福岡市中央区天神の「ギャラリーとわーる」で開催中]