元村正信の美術折々/2016-04-17 のバックアップの現在との差分(No.1)


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美術折々_49
 

「ヒトはなぜ絵を描くのか」 と問うこと
「ヒトはなぜ絵を描くのか」と問うこと
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2011年春に亡くなった美術批評家・中原佑介の編著書に『ヒトはなぜ絵を描くのか』(フィルムアート社、2001年)というのがある。

この本は様々な分野の専門家11名と中原の対談集。ひと言でいえば、先史時代のいわゆる「洞窟画」を軸に、
タイトルの通り「ヒトはなぜ絵を描くのか」 という答えのない問いを、「美術」を超えて異分野の視点を絡め
横断的に探ろうとするものだ。

その中で、人類学者の片山一道は、「言語はネアンデルタール人どころか、原人、つまり百万年前とか、
あるいはそれ以上前の段階で生まれた可能性がある。だとしたら、絵を描くのも、そこまで遡る可能性がある
のではないか」と言う。

石器というか、道具はどこまで遡るんですか、という中原の質問に、片山は「だいたい200万年前」、「原人と
いうよりも、猿人と原人の中間的な人類です」と答える。

考古学や人類学は、まったく無知の僕が、美術家としておもうに「洞窟画」というのは、どれもその絵が巧すぎるということだ。巧いということは、もっとそれ以前からヒトは描いてきたのではないか。洞窟画は決して始まりではないはずだ。

「現在発見されている洞窟壁画のなかで最も古いとされるのは、3万5000年ほど前のものとみられるフランスのショーヴェ洞窟だが、2012年のスペイン北部の洞窟壁画の再調査で、赤色の丸模様が4万年前、手形のステンシルが3万7000年ほど前のものであることが発表された」(川畑秀明『脳は美をどう感じるか』ちくま新書、2012年)という。
「現在発見されている洞窟壁画のなかで最も古いとされるのは、3万5000年ほど前のものとみられるフランスのショーヴェ洞窟だが、2012年のスペイン北部の洞窟壁画の再調査で、赤色の丸模様が4万年前、手形のステンシルが3万7000年ほど前のものであることが発表された」
( 川畑秀明『脳は美をどう感じるか』ちくま新書、2012年)という。

私たちは残存する「洞窟画」を基準にするが、片山一道はこうも言う、「残ってないからなにもなかったことにはならない」と。つまり、残っていないが何らかの「絵」が何十万年、いやもっと以前にあったとしても、なんら不思議ではない。ただそれを証明できないだけなのだから。人類最古の石器といわれるボルドワン石器は
今から250万年前に誕生したらしい。
私たちは残存する「洞窟画」を基準にそれが最古の「絵」だと考えがちだが、片山一道はこうも言う、「残ってないからなにもなかったことにはならない」と。つまり、残っていないが何らかの「絵」が何十万年前、いやもっと以前にあったとしても、なんら不思議ではない。ただそれを証明できないだけなのだから。

石器でいうなら「考古学上、規則的な工程で製作された人類最古の石器は、ボルドワン石器と呼ばれ、今から250万年ほど前に誕生した」( 川畑秀明『同書』)らしい。

もっと想像をふくらませると、石器の誕生以後、「描く」という行為も始まったのではないかと僕はおもって
しまう。もちろん描くといっても、もっと動物的、肉体的、身体的な行為として「皮膚全体」で描くというようなものとしてあったのかも知れない。動物や人が交わる、血あるいは土が、植物が、鉱物が、混ざり合った未分化な絵ともいえぬ「絵」のようなもの。

「ヒトはなぜ絵を描くのか」 と問いながら遥かな時代を遡行するとき、そこには恐怖からなのか歓びからなのかは不明だが、いかに残らずとも、そこにしるさずにはおれなかった「ヒト」の感情や記憶の蓄積が、激しく
渦をなしていたのではないだろうか。

いまのように「描く」という行為が、何らラディカルに問われることなく、むしろ日常そもののごとく軽みに
まで退化していく様を見るにつけ、「ヒトはなぜ絵を描くのか」 と問う資格すら、はたして私たちにはあるの
だろうかと思うのだ。
いまのように「描く」という行為が、何らラディカルに問われることなく、むしろ日常そのもののごとく軽みに
まで退化していく様を見るにつけ、「ヒトはなぜ絵を描くのか」と問う資格すら、はたして私たちにはあるの
だろうかと思うのだ。それでも中原佑介の発した問いは、いまも私たちを叱咤し続けている。