元村正信の美術折々/2016-03-20 のバックアップソース(No.2)

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美術折々_45
 

さて、何をどう見ようか (2)
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前回の最後に紹介した浅田彰の言葉は、ウエブマガジン「REALKYOTO」の2016年1月29日付で掲載されて
いる、「村上隆なら森美術館より横浜美術館で」と題した記事中にある。以下に少し抜きだしてみよう。


「むしろアーティストの膨大なコレクションをぶちまけた横浜美術館の方が問題含みで面白い」とした上で、

浅田彰は、まず村上隆のこれまでの活動の「基礎にある認識と戦略」をおおまかに振り返っている。
それらは確かに浅田がいうように「マンガやアニメやゲームを素材としながらも、特異な方法論によってそれらを別次元にもたらす試みだった」と、まずは言ってよいだろう。

これまでを評価したのち浅田は、今回の村上の「五百羅漢図」を、「下手にマンガ化された出来損ないのキャラクターが並列されるだけのたんにフラットな画面に終わってしまった」という。その上でさらに「森美術館で
披露された全長100メートルに及ぶという『五百羅漢図』は5分で通り過ぎてしまった」と、一刀両断に伏して
いる。この辺りの詳細はここでは挙げないが、興味のある方は読まれるとよい。

そして、さらにこう付け加えている 「14年前の村上隆の方がいまよりはるかに刺激的な存在だったと考える私は、いまの村上隆を評価することができない」。これは浅田自身が言っているように日本の中で、今回の展覧会への「批評と呼ぶに足るものはあまり出ていないように見える」ことへの苛立ちがあってのことかも知れない。

村上隆が、東京藝大大学院で博士号を取得したのは、1993年。その翌年1994年にはACCグラントを得てニューヨークに渡ったのは知られる通りだ。僕がいつも言う 〈現代美術の崩壊〉を1995年辺りに置くなら、
村上は丁度その崩壊を察知したかのようにして日本から「世界」へと脱出したことになる。浅田がいうように
「特異な方法論によってそれら(マンガやアニメ等)を別次元に」もたらしたのだとするなら、それは、まさに 〈脱・現代美術〉を地でいく 「別次元アートの表現者」 としての、この20年間の果敢な試行だったと見ることもできるのだが。

僕は、村上が先のTVインタヴューの中で 「日本的なものを現代美術の文脈でかきおおせた」と語ったのを聞いて、どこか虚しい気がしたものだ。もうそのような「現代美術の文脈」など、この国には残存してはいないのだから。当然そんなことも、彼は百も承知の上だろうけれど。

いずれにしろ、この日本に限っていえば、「ムラカミアート」への賞賛か、まったくの黙殺かに、多くの反応が二分されてしまう。おそらくそれが、「世界的アーティスト」と呼ばれているにもかかわらず、村上への本当の評価をいまは宙づりにする形ともなっている。いずれその判断は未来の子どもたちが下すことだろう。

じつを言うと僕は、「世界的アーティスト」と呼ばれる村上隆の作品が、仕事が、「アートであるか、ないか」 あるいは「アートとしてどうなのか」 といった問題にはあまり関心が向かない。僕は、いまでは村上隆という
人をアーティストというより、グローバルに「芸術産業」を駆動させる企業人であり「資本家」だと理解して
いるからだ。だとすれば、彼および村上隆の会社が生み出すものは「作品」であると同時に、〈製品〉でもあるという企業構造をみずから〈所有〉し、産出していることになる。じっさいそのように、世界を駆け巡るグローバルな企業経営がなされ取引されているのであるから。

もちろん、李禹煥が言うように 「村上さんのバイタリティーは世界でも稀有なもの」であるのなら、そのことは企業家としての才能に当てはめても充分に賞賛するに値するものであろう。彼こそ「アートというスタイル」の製品を産み、商うことのできる、そして剰余価値を追求することのできる、日本が生んだ優れた企業家のひとりではないだろうか。

村上隆が、グローバルな資本主義世界の中で、再度いうがその非情な新自由主義のもとでの消耗戦のなかで、
みずからの資本家としての規模の「小ささ」を自覚しながら、あるいは「搾取」を受けながらも戦っている
ことは、まさに孤軍奮闘する企業戦士そのものの激烈な姿であると、僕は思う。

これからも永遠に彼のなかの自由が、革命が、そして製品が、彼が生み出す芸術産業が、不自由を隠蔽し続けてやまない世界資本のイデオロギーに摩滅されないことを、遠く 極東(いや今ではこの領域さえ無効となって
しまったが)の端の、小さな島国日本の、そのまた無名の辺境から、僕はひとり静かに夢想し続けていよう。