元村正信の美術折々/2016-03-16 のバックアップソース(No.1)

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美術折々_44
 

さて、何をどう見ようか (1)
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「世界的アーティスト」と呼ばれる村上隆の、日本国内では14年振りとなる大規模な個展と、彼による蒐集品、コレクション展が昨年秋から今年にかけて、様々なメディアで「話題」にされているのは多くの方が
ご存知の通り。

東京・六本木の森美術館で開催された「村上隆の五百羅漢図展」(3月6日終了)と
横浜美術館の「村上隆のスパーフラット・コレクション」(4月3日迄)の二つである。

僕は直接見た訳ではないので、今回の彼の作品や収集したものへの評価や判断をここで下すことはできないが、
それについて新聞、TV、ネット等で目にした記事や批評をいくつか抜き出してみよう。

まず昨年、11月26日(木)付 読売新聞朝刊文化面は、村上を評価している画家の李禹煥と「美術手帖」編集長の岩渕貞哉の両氏に「村上作品の魅力を」聞くというかたちで、「五百羅漢図展」を紹介。
李禹煥は、「古典的なものに未来を映し出すのはとても野心的だ」と評していた。

また12月7日(月)付 日本経済新聞夕刊文化は、文化部記者による記事。比較的、村上の「五百羅漢図」に沿って解説しつつ、村上自身が記者会見で「宗教と芸術の関係に興味があった」と述べた言葉とは対照的に
「この気宇壮大な作品にはそれほど深い祈りや救済の心は感じられない」と冷静に書き、さらに村上の
「自画像」には、ある種の「無力感」さえ嗅ぎ取っていた。

もうひとつ、先日3月7日(月)付 西日本新聞朝刊文化面の寄稿記事は、福岡市美術館学芸員の山口洋三に
よるもの。読まれた方もいるだろう。この記事の見出しはズバリ「村上隆に もはや『日本』は太刀打ちでき
ない」。もちろん山口自身が付けた見出しではないだろうけれど、それを容認できるほど文章の内容は自らが
受けた「衝撃」と、村上礼賛にあふれていた。そして「いまや国内の美術システムは、村上隆と張り合えない
状況になってしまったのである」とまで言い切っている。これはある種の「日本美術」敗北宣言と取れなくも
ない。

村上隆は、「国内での展覧会はこれが最後」と言ったらしい。 2月7日(日)のNHK Eテレ2の番組内でも、
五百羅漢図の自作を前に俳優・井浦新によるインタヴューの中で、ある種の達成感からだろうか、村上自身
「もう死んでもいい」と語っていた。

これらの真意は不明だが、その言葉通りであるなら、僕からみれば村上隆は、グローバリズムという資本の絶対的優位が支配する高度に人工的な激流の中にあって、おわりのない非情な経済主義下での消耗戦を、自らが
強いられているように思える。であるのなら日本など捨てるもよし、国際舞台で戦い続けるのもよし、だろう。国家など何程のものかであろう。資本を制するものは、いまや国家さえ抑圧し、露骨に介入できる時代であるのだから。


先に、まず三つの新聞記事からの抜粋をあげたが、それに対してネット上で読んだ中で注目したのが、
批評家・浅田彰の記事である。 
「率直に言って森美術館の展覧会は規模が大きい割には期待外れ」だったというものだ。