元村正信の美術折々/2016-03-01 のバックアップ差分(No.1)


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美術折々_42
 

「美術」とは何か (1)
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なぜわざわざ、こんな問いを今さら持ちだすのか、と思われる人も多いだろう。確かにそれは容易には答えられない問いである。いや、答えようのない問いなのかも知れない。でも、まったくそれを「問う」ことなく、避けて 「美術」を考えたり、表現することなど可能なのだろうか。

ここで僕が「美術」というのは、だれもが漠然とでもそれぞれに思い浮かべるであろう古今東西の美術やそれらの作品のことでもなく、またカタカナの「アート」に取って代わられようとする日本の美術全体のことでも
ない。それは少なくとも僕が関わることのできたこの40年間の、ちょうど真ん中で起きた〈現代美術の崩壊〉
という経験の後に現れ、そしてこれから現れるであろう新たな表現の試みのことなのだ。

その上で、ひとつの「話題」を起点にして「美術」というものをすこし考えてみたい。 

その話しとは、

現在、国内外で活躍する日本の著名なひとりの美術家が2014年に出版した自著の中で、ある書店員が
その作家に次のような素朴な質問を投げかけていることだ。

「何が美術とそうでないものを分つのでしょうか」、と。

これはつまり、「美術」と呼ばれるものと「美術でないもの」とは一体どう違うのか。そしてその「美術とは
何なのか」、という素朴というよりも、かなり根源的な鋭い問いなのである。

それに対してこの著名な美術家は、その回答ともつかない回答の中で次のような言葉を述べていた。

「そもそも『美術』という漢字二文字自体が現在急速に死語化の道をたどっています。今はもう『美術』の時代じゃない。『美術』のかわりに『アート』というカタカナ三文字がとってかわろうとしています。『美術』から『アート』へ。この美の『カジュアル化』現象は、もうあと戻りが難しいかもしれません」

はたしてこれは、その書店員の質問の「答え」になっていたのだろうか。この作家の展望通り、この国の現状は、未来は、そうなって行くのだろうか。

じっさい、現在の日本の趨勢は「美術」ではなく、「アート」という「カジュアル化」に一層拍車をかけているようだ。ただ何度も
言うが日本の「アート」の行き着く先は、けっして世界の“ART”には到らないと僕は思う。西洋の芸術の概念を
矮小化し空洞化しただけのカタカナの「アート」を欧米語には逆翻訳すらできない。なぜならそれは日本国内
だけで消費されるのみの、通俗化した流通語でしかないからだ。「アート界」などという語がなんの抵抗もなく平然とメディアで使われているのである。

そもそも、「アート」は「ART」の日本的表音にすぎず、まったくちがう位相にある。ARTの翻訳語であった
はずの 「芸術(美術)」は、翻訳以前の西洋の「ART」の概念を、同じ意味を、日本の近代語として受容し
誕生した言葉であったことを忘れてはならない。

カタカナの「アート」は決して翻訳語ではない。無批判な「アート」の乱用やその氾濫は、むしろ日本という
近代が生んだ翻訳語を、母語を、自ら破棄するものと言ってもよい。それはつまり、私たちが世界と対峙する
ために問うべき、「芸術の概念」をも放棄したも同然の状態だと、僕は受けとめている。

だから現在のこのような日本に生まれ、世界の中でみずからを試すには、直接海外へ出て「芸術」を学び、
そのまま拠点を持とうとする若い作家たちが出てくるのも当然のことなのだ。
グローバルとはそういうことを指すのではない。

(つづきは次回)