元村正信の美術折々/2016-02-12 のバックアップ(No.1)


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美術折々_39
 

父の死のあとで

気鋭の劇団「ハイバイ」の最新公演「夫婦」が、1月の東京芸術劇場シアターイーストに続いて、明日13日(土)と14日(日)の両日、北九州芸術劇場小劇場で上演される。

それに関連して先日、2月4日付の西日本新聞夕刊に、劇団主宰の岩井秀人へのインタヴュー記事が載っていた。
今回の新作公演「夫婦」は、岩井の実父と母との関係をもとに描いた〈家族の劇〉ともいえるもの。

仲が悪いのに別れなかった母。そして幼少期から暴力を振るわれ憎悪の対象だった医師の父。
そんな父の2014年、肺がんでの死という自らの錯綜した「経験」を下敷きに舞台は動くのだが。

このインタヴューの中で岩井は、「家族の中で夫婦だけ血のつながりがないけれど、僕らには立ち入れない部分があって。最後は2人が、理解できない一つの生き物みたいに見えた」と語っている。
ここで「僕ら」というのは具体的には彼の兄や妹のことなのだろうが、「僕ら」という時それはそのまま観客でもあり、誰もが父と母から生まれた身である私たちにも、すぐさま置きかえられよう。

長いあいだの父からの暴力。クソみたいに、ひどい目にあわされた父。いわば、エディプスコンプレックス消失後の〈抵抗〉としての〈去勢コンプレックス〉の強迫感が、彼の成長とともに逆説的であるにせよ蓄積されていったとも受け取れる。もうひとつの〈父殺し〉への願望が、はからずも父の「無念」の死となって〈達成〉
されてしまう。想像するに、ここには予期せぬ父への〈大事な戸惑い〉となり、長い迂路を経て岩井自身に、
ほどけぬ父殺しの問題が再帰したのではないか。

僕がここで何に触れたいかというと、じつは彼と父との関係よりも、その両親、つまり仲が悪い夫婦の関係が、「理解できない一つの生き物みたい」であったということなのだ。家族でさえ「理解できない」という、いわば家族を拒絶するような関係の中にさえ、血縁のない「夫婦」の仲に出来上がってしまった「理解できない」関係とは一体なんなのだろうと思う。

もっといえば僕の関心は、夫婦に限ることではなく、そういう他者同士の嫌悪にみちた奇怪な結びつきに、なぜ「理解」というものは容易に挫折するのかということだ。理解不能の、人と人とのあいだの「理解できなさ」を簡単に拒絶するのではなく、むしろその、立ち入れなさ、理解できなさ、伝わらなさをこそコミュニケーションの根拠に置きたいからなのだ。

「夫婦」というものは複雑きわまる人間の関係にあっては、一つの繋がりのかたちにすぎないのかも知れない。だが、その関係の〈理解し難さ〉において、その子どもたちに、父や母の亡き後に再び、ものの生産の外部としての「家族」という場所が持っているはずの、生存の始まりの場所に、私たちすべての〈子どもたち〉は、生涯なん度も立ち返ることになるはずだ。

すでにある観客に向けてではなく、これから成るかも知れない観客に向けて、岩井秀人が理想とする
「観客が舞台に語りかけたくなる演劇」を、今回も期待したいものである。

なお5月7日・8日には福岡市の西鉄ホールで新作「おとこたち」の上演が予定されている。