元村正信の美術折々/2016-01-11 のバックアップソース(No.1)

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美術折々_34
 

「世界」という世界
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新春、1月9日付の日本経済新聞文化面では、「日本の現代美術 世界に羽ばたけ」という見出しで、現代美術の相次ぐ新人賞の新設を取り上げている。

資金援助する企業からいえば、グローバルに世界で活躍できる日本の新人作家を発掘し、サポートしていこうということである。高額な賞金はもちろん、海外でのレジデンスやアートフェアへの出品も含めた新人賞に、若い作家たちはみな意欲的だ。

「グローバルに」「海外で戦える人材」を応援しそれを求める企業。これはなにも市場経済の、企業戦士に向けての話しではない。いままさに、世界に羽ばたきたい若い「アーティスト」に期待される能力のことである。
世界市場という観点からみれば、それが医学や科学であろうが、またARTであろうが「強いブランド力と発信力」において企業とコラボでき、投資に見合う対象であるなら、カテゴリーは問わないということなのだろう。

ただここで気になるのは、「日本の現代美術」という捉え方のことだ。「反芸術」のあとの、1960年代末から
仮に現在まで一貫して「現代美術」とは何か、が問われてきたのであれば、なんの異論もない。だが僕に言わせれば、「現代美術」の内実は空洞化し、すでに崩壊している。そもそも既成の概念や制度への批判を含む同時代の先鋭的な表現であったはずの現代美術が、いつしか現状を追認し同調してやまないカタカナの「アート」に
変質し、すり替えられその場の御都合よろしく「現代美術」であったり、時には「アート」にもなる。その逆もまたしかり。執拗にいうが、「ART」と「アート」は同じではない。

「現代」に生きていて何がしかの「アート」に関わっていれば、それが「現代美術」だとする程度の共通認識であるのなら、おなじように日本で「コンテンポラリーアート」を名乗ることとなんら変わりはない。

日本の若い作家たちが積極的に世界に羽ばたいて行くことに、もちろん誰も異をとなえる者はいないであろう。
しかし世界の「ART」に対峙しうるには、自国の、母語の、「歴史」に無自覚なままで羽ばたくことが、はたしてできるのだろうか。それは作家だけではなく、それを評価し取り上げるキュレーターやメディア、当の企業にも言えることだ。

芸術の拡張、「芸術の規制緩和」によって、「美術」が「アート」に「カジュアル化」して行くらしい、この国の現在を考える時私たちの、日本の「芸術」は、ほんとうに〈世界〉に羽ばたけるのだろうか。新人賞というのは、そもそも将来作家になりうるかも知れない未知の作家志望の人に与えその可能性に賭ける賞であるはずだ。

ことは、「いま、どんな賞が求められるのか」でも、「現代美術を支える重要なシステムの一つ」として、あるべき「賞」でもないはずだ。若い人に限らず、作家ならずとも、誰にとっても「食べていけること、自立すること」は、生涯に渡って付きまとう当然の事柄である。賞をもてはやし、はやされるのもいいけれど、芸術自体の問題、「世界」の在りようと、向き合ってはじめて「羽ばたく」ことを支援できるのではないだろうか。