元村正信の美術折々/2015-12-04 のバックアップ差分(No.1)


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美術折々_28
 

私的追悼  村上  勝
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美術家の村上勝が、11月30日亡くなった。

今年5月。「ギャラリーおいし」での、自らの詩的散文と作品写真からなる『前方の微笑』出版記念の個展で会ったのが最後だった。僕がその姿を見て「大丈夫」と聞くと、椅子に座ったまま「良かったり、悪かったり」と
ひとこと応えた。その時僕は、もう会うのはこれが「最後だろう」とおもった。
そう思えるほど彼は、かつての武勇伝を語る、頑強な武闘家、村上勝ではなかった。


遠く、1975年。下川端にあった「ギャラリーふくだ」での初個展を、僕はおぼろげながら覚えている。
それは「抽象画」とまではいかない、どこか「具象」の残像のような形も入り混じった、額縁入りのタブローだったとおもう。これは70年代日本の、いわゆる「もの派」以後のポスト・コンセプチュアルな「現代美術」の動向から見れば、かなり地方的で、後進的ですらあった。それはその後に彼らが結成した集団「ゾディアック」の短い活動と作品にも当てはまるだろう。

当時、若い村上は、元「九州派」の桜井孝身やオチ・オサムらと連れ立って、僕らの展覧会を見に来ていた時もある。つまり彼は「九州派の影」を身近にまとった数少ない作家のひとりだったと言える。そんな彼らを、僕らは九州派を含めその残党的取り巻きや作品をも批判的に見ていた。そのことは、この40年間の村上勝と僕の「距離」というものを、そのままにしていた所がある。

しかし、九州派の作家たちの多くのが、九州派解散以後、ここ福岡で一個の作家として、作品が、若い世代に
どれだけ影響を与えたというのだろうか。ほとんど皆無ではないか。もちろん若かった僕も、山内重太郎、石橋泰幸、米倉徳といった元メンバーとも知遇を得たし、九州派当時の話しも聞き、とくに山内重太郎からは、九州派批判を書くために風呂敷包み一杯の九州派に関する資料を全て借りて読んでもいた。それでも、その後の彼らは「作品」で語ってくれはしなかったのである。
その意味で「九州派以後」というものはない。ただ「断絶」があるのみだ。


2014年1月、屋根裏貘での「村上勝×小林清人」のトークの折りの村上発言は以外だった。
彼は自分にとって「70年代はエアポケットの時代」だったといい、当時、前衛と現代美術の「谷間にいた」と
いうのだ。つまり、村上勝にとって現代美術の受容はかなり自覚的に遅れてなされたということらしかった。

それでも、彼はよく「状況」をいい、「現代美術」をスタイルにし、この40年、彼なりに実践し続けてきた。
彼程この福岡という地で、発表の場数を重ねた美術家はいないだろう。おそらく最初で最後であり、唯一の作家だったと言ってよい。個展のみならず、よく徒党を組みリーダーとして「青春の集団」を生涯に渡って率いた。ある意味、九州派以上に「土着的」だったのではないか。

いまではこの国の〈現代美術〉も崩壊してしまったけれど、村上勝のなかの「現代美術」は最後まで、羽ばたき輝いていたのではないだろうか。