[[元村正信の美術折々]] …………………………………………………………………………………………………………………………………… 美術折々_19 その逆説的盲目_2015 当たり前のことと思われるかもしれないが、また敢えて言えば、私たちは「見る」ことが出来る。 しかし、本当に見えているのか、という問いは、私にとってはますますつよくある。 視覚という〈器官〉がうまく機能してくれて、見えているにもかかわらず、見えていながら「見えていない」 ということはあるのではないか。これは単に「見えないもの」があるということとも違う。 見えている以上に、見ることは容易ではないのだ。 もし、「見ることが不可能なものを見るほかない」(大澤真幸『美はなぜ乱調にあるのか』) というゴルゴンの顔の逆説でもあるのなら、私たちの日常はそんな「見えない」こと、「見ることの不可能性」に充ちていることになる。 ましてや現在の「美術」は、そんな〈不可能性〉をはたして凝視しようとしているのだろうか。 もてはやされる「アート」という名の商品化とは裏腹に、深まりゆく盲目の内に〈見るということ〉は じつは埋没しつつあるのではないか。 わたしはいまも、ニーチェの「芸術は生の否定のすべての意志に対する無比に卓抜な対抗力にほかない」という言葉を反芻する。生を否定してやまない世界、この世界への異和を、いまは「絵画という形式」を通して かんがえ抜いて見たいと思っている。