元村正信の美術折々/2015-06-10 のバックアップ(No.1)


美術折々_13

 

梅雨のほとりにて

若かった頃は、いつも春先になると言いようのない不安に戸惑い、その日通う道さえも心細く思ったものだ。
それは少年少女の、不安定な心もようだけでなく、ものみな芽吹くようにふくらみ始めてまだ落ち着かない、
華奢でやわらかな体つきそのものから来るものだったのかも知れない。

やっと二十歳を過ぎ、ちょうどそんな不安と入れ替わるように、美術家として個展をするようになってから何度となく見続けた強迫的な夢がある。それは、個展の初日を迎えたというのに、作品が全く出来上がっていないという夢である。何もないのだ。喉もとまで追いつめられいつも決まって、そこではっと目を覚ました。

そうしながら何度も個展や発表の場数を重ねるうちに、そういう強迫的な夢のようなものもいつしか遠のいていった。

よく、夢うつつというけれど、いまだってどこまでが夢で、何が現実なのかは本当のところ分りはしない。
「夢が現実になった」という話しはどこかで聞くことがある。だが現実というものが、夢ではない証しなど
ほんとうにあるのだろうか。

一見当たり前のように「ある」と思い込んでいる目の前の現実というものが、《 けして触れることが出来ない
現実 》であることを、わたしたちはそれを敢えて遠ざけることによって( むろんそこに多くの錯誤や欺瞞、
虚偽は付け込むのだが )かろうじて現実(あるいは夢)というものを生きて行くことができる。

だから、夢と現実が、ぴったりと重なりあうことはないはずなのだ。なぜならそのズレによって、その裂け目や溝の深さによって、わたしたちは、日々というこの苦痛と、儚さと、快感が、見さかいもなく交じり合った日常を、病みながらも、しのぎ、超えて行くこともできるのだから。

初夏のあと、梅雨のほとり。穏やかな青灰色の水面の果てには、地とも空ともつかない無限の余白がどこまでもひろがっている。
(2015.06.10)

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