アートスペース走り書き/2020-02-23 のバックアップの現在との差分(No.2)


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アートスペース走り書き_03
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書どう 胡桃 個展「風の影」 [〜3月1日迄]
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書どう家・胡桃(くるみ)さんは、若い書家です。 
でも自ら「書どう家」と名乗るように、一般に言う「書道家」とは少し違う。
それは書の「道」ではなく「どう」であること。
彼女の作品を見ていると、この「どう」が「動」に思えてくる。「書動家」に。

そう言いたくなるほどその作品はどれも動的なのだが、たんに形が動的なのではない。
ふつう、書はいくらダイナミックな造形になっていようと静止的であることに変わりはない。
だが彼女の場合、書くということが肉体的というかより身体的に咀嚼され表現されている
という点において特異だと僕は思う。
筆はすでに置かれ紙を離れているのに、文字はそれのみで完結することなく空中に漂っている。

たとえば「舞」の一文字。濃淡も滲みもなく力強い鮮明な墨跡は、紙という大地のはるか上で
まさに舞い踊る。「舞」という文字そのものが、肉体化され宙吊りになっているようである。

そしてもう一つ、掛軸になった「女」すなわち分解すると「く、ノ、一」。
左下縦書きのひらがな、くのいちは読めるが上部の文字は、女には見えない。だが全体を左に90度回すと
女と読める。僕からすると、くねり孕む母以前の膣にも思えてくる。それが「くのいち」なんだと。
女と読める。僕から見るとこれは、くねり孕む母以前の膣にも思えてくる。それが「くのいち」なんだと。

胡桃さんは、古代中国の甲骨文に惹かれるという。そこに漢字の祖形をたどりながら今を生きる漢字の、
書の現在を、どこまでも自らの身体をとおして「書く」ということを探求しようとしているようだ。

僕からすれば、むしろこの地球は愛と平和と調和によって満たされるものとはけして言えないが。
できうれば、胡桃さんが信じるそんな小さき粒子が生命力が、裏切られ捨て去られることのなきよう。
いま以上に疎外され絶滅へと導かれぬよう、ただ願うばかりだ。
                                      (元村正信)
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