元村正信の美術折々/2017-03-15 のバックアップ差分(No.1)


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美術折々_89
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ある蔓延への、感性の抵抗として (2)
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先月、2月11日(土)付 日本経済新聞朝刊文化面は、『アートは社会的行動』の見出しで、1月に来日した
美術批評家のボリス・グロイスを迎えたシンポジウム関連の記事。
そして3月11日(土)付には、『アートで社会変えたい』と題した、社会と関わる「ソーシャル・エンゲイジド・アート(SEA)」のプロジェクトが紹介されていた。

毎月のように、『アートは…』、『アートで…』と、「アート」が盛んに取り上げられている。
いずれも、「社会の現状を変えよう」とするための「アート」の役割や活動を取材したものだ。

ではその「アート」とは、いったい何なのか。何をして「アート」と言っているのか。

それはなにもこれらの記事に限ったことではないが、現在の日本では「ART」というものが、カタカナの
「アート」という語によって消費され使用される時、ほとんどと言っていいほど、この「アート」そのものは
問われることはない。むしろその問いを留保することで、棚上げしておくことで、「アートが」語られている。認知されているのだ。

たとえば、社会、経済や教育、福祉、災害、自然そして地域や文化、歴史などなど、どれもが個別の問題を
かかえている。

その上でそれらとアートは、アーティストは、そしてそれを「体験」する人々はどう関わるか、というその
関わり方、関係のしかたこそが、インタラクティブで新たな「アート」の試みであり、在りようなのだ、という訳である。だが、「社会の現状を変えよう」とするには、現実の問題にスポットを当てるだけでなく、問題化
するだけではなく、同時にその現実を批判できなければならないはずだ。対話や、つながり、学び、コミュニケーションは、何も「アート」独自の方法ではない。

いつもアートそのものの内実は問われないまま、いかにも予めそこに「アート」は無条件に存在しているかの
ような「前提」となって、ものみな社会化されて行く。だれもが何が「アート」なのか分らないまま、社会
(他者)と関係したそのプロセスや結果によって「アート」は既視化され、いつの間にか「アート化」されて
いるのである。無害で現状追認にみちあふれたアートとして、コミュニケーションの道具としてのアートが、
持てはやされるのである。

「社会」をいうなら、テオドール・W・アドルノは『美の理論』の中で、「芸術は社会と対立する態度をとる
ことによって社会的なものとなる」と言う。さらに「芸術にとって本質的な社会的関係とは、芸術作品のうちに社会が内在していることであって、社会のうちに芸術が内在していることではない」と言っている。そうだと
するなら、「社会と対立する態度」というものを、この国の「アート」は果たして取れているのだろうか。

逆にいうなら、「芸術」が社会的なものとなるためには、社会と対立する態度をとることが、求められる
ということだ。

もちろん、アドルノは「芸術」と言っているのであって、「アート」とは言っていない。
もしいま、『美の理論』の日本語版が出るなら「アート」と翻訳することを許すだろうか。僕にはそうは
思えないが、どうだろう。