元村正信の美術折々/2018-03-06 のバックアップ(No.1)


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美術折々_135

境界はいつどこにあるのだろうか

福岡県立美術館で開かれていた、福岡教育大学美術教育講座の卒業制作展を久し振りに見た(3月4日終了)。
その中でも出色だったのが、二宮千咲の「DoA」と題された作品(size:120×120×320cm)。

それは乳白色に塗られた杉材と合板で作った、10数枚のサイズの異なるドアを大きな柱状に組んだ美しい直方体である。さらにそのドアの一つは開いて、内部の空洞に入ることも出来る。しかも床と天井は抜けているので、床部分は置かれた場所の地肌が見え、また上の方を見れば天井の換わりにぐるぐると張られた有刺鉄線ごしに、美術館の天井が見えるようになっていた。

この作品が何より出色と言ったは、それが「ドア」のみで出来ていることだ。ふつうは壁など、ある空間の内部と外部との出入口として機能するドア。ここでは壁を持たないドアそれ自体が「壁」となって、「境界」にもなっていることに着目したい。

そしてこの若い作家も、自らの作品のテーマを「自他の境界」だと記している。さらにそこに「明確な自我」を意識しつつ、「境界の象徴としてのドア」だとも言う。ただここはかなりアンビヴァレンツなところだ。

そもそも、自己と他者とのあいだに境界はあるのか。私は私であると言ったとたん、私から離れ、それは同時に他者にとっても、私であることになる。だから、ランボーがいったように「私はひとりの他者である」ということにもなるのだ。

たしかに、二宮千咲の「DoA」という作品はナイーブで未熟ではあるかも知れないが、自己と他者を、その境界を、かたちにしたいとする切実な態度がストレートに反映されているように思える。

自他の境界というものは、つねに曖昧であり、むしろ私たちは「曖昧」であることによって時に自他を「混同」したりもするものなのだ。それでよいのではないのだろうか。そのことは何も自信のなさや負い目などではないはずだ。だからこそ彼女の乳白色の美しい直方体は、逆に制度や慣習あるいは束縛を無効にするかのように、
いつでも出入可能な「ドア」のみで成り立っていて、そのことが境界はあるけれど境界はないのだと、暗示し
示唆してもいるのではないだろうか。

僕の勝手な理解は、見ず知らずのこの若い作家のかんがえとは違ったのかも知れないが、このいびつな世界と
いうものからきっと同じことを嗅ぎ取っているのではないかと、思っている。とまれ、二宮千咲のこれからを、たのしみにしていたい。