元村正信の美術折々/2017-06-23 のバックアップ(No.2)


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美術折々_102

青空の枇杷色


どんな苦痛であろうと、苦痛を知ってから抵抗するのは遅すぎる。「気を失って」からでは遅すぎるのだ。

私たちが何かに抵抗しようとするのは、突然あるとき自分でも知らないうちに、苦痛というものが
理不尽にも襲いかかって来ることを先人たちから学んでいるからだ。それでも与えられてしまった苦痛は
消しようもないが。

たとえば、ニーチェが「すべての快のうちには苦痛がふくまれている」(『権力への意志』下、ちくま学芸
文庫)という時、快は権力でもある。権力は、とうぜん苦痛を養うことになる。それだからこそ権力は
「不快の状態で測定」されなければならないし「正常な不満足」の声、つまり〈抵抗〉を必要とするのである。

ニーチェは「二分裂が権力への意志の結果としてあらわれる」と言った。それは快と不快、強者と弱者、
満足と不満足…それぞれが求め合いながら、反発しながら増大して行く状態を〈権力への意志〉と言ったのだ。

だからこそ、ここにはそれらの対立が、抵抗が渦巻く。これを「権力への二重性」と言い換えてもよいだろう。
それゆえに私たちの抵抗の「声」は苦痛からの抵抗ではなく、苦痛を予見した抵抗でなければならないはずだ。

おなじくニーチェが、「世界は、合理的には存在しない何ものかである」というとき、そこには「権力への
意志を阻止」するものとしての「人間」を見ているのではないだろうか。この非合理な生き物としての人間を。

人はやはり自らが抵抗すべき何かを、あらかじめ知っているのであり、対抗すべき何ものかを必要として
いるのである。 屈託のないかのような青空にさえ、抜けるような苦痛はひろがっているのだ。

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