元村正信の美術折々/2017-06-16 のバックアップ(No.2)


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美術折々_101

安部義博 ・ 2017

このように混沌とした絵画は、そうあるものではない。安部義博の個展のことである。

彼はみずからを「無能」と言うけれど、もし彼が本当に無能なら、私たち誰もがそれぞれが持っていると
思っている何がしかの「能力」は、いったいどんなものになるのだろう。

一度でも、安部義博の絵画に接したことのある人なら分かるかも知れないが、彼の絵だけが持つ、謎というか、
迷路というか、つまり 〈混沌〉は、なにげなく理解するということとはまったく逆の戸惑いを、私たちに
差し出す。

今ではすっかり、「絵画」を見るということの先入見となってしまった、驚きあるいは心地よさ、もしくは
楽しみといったものが、ここにはない。それほどに安部義博の絵画は、僕から言うと「見えにくい」。
でもそれは、目さえ開いていれば見えるということになるのか。盲目でなければ見えるのか、という問いとも
とうぜん重なっているのだ。

彼が描けば描くほど、その直前に描かれた痕跡が層をなして行く。だから絶えず、描くということが彼の行為を打ち消している。みずからが打ち消しながら描く。そういう矛盾、いわば彼のなかの否定性が安部義博の絵画を貫いている、と僕は思う。

それが何よりも、安部義博の「絵画」が持つ 〈混沌〉なのではないだろうか。

こう言ってよければ、醜さ、濁り、混迷もしくは悲惨、残虐、暴力、抑圧…数え切れない痛苦等々。そのような「負荷」のどれをも感じさせる絵なのである。しかしそのことは、彼の「絵画」がそのどれをも合わせ持ち
ながら、同時にそのすべてを拒否しているように僕には思える。

それらのどれもが昨日あった、ついさっき起こったはずなのに、それをまるで無かったかのような〈錯覚〉に
してしまうことで、今のこの穏やかな昼下がりのまどろみは仮構されているのだと、彼の絵がおしえてくれる。

おそらく、安部義博の絵画における混濁した色彩も、過激な筆触も、すべてが私たちの日常という名の欺瞞への
「思い違いの破壊」に向けられていることは、ここに記憶しておいていいのではないだろうか。

またそれは、だれもが見ることの出来る絵画だが、だれもが見ることの出来ない絵画だとも言っておこう。

  
            (同展は福岡市中央区天神2丁目の「ギャラリーとわーる」にて、6月18日まで)