美術家・元村正信氏に、アートスペース貘で見た展覧会の感想や
折々の事などを、美術を中心に気の向くままに書いてもらいます。 artspacebaku
美術折々_01
はじまりに
今回から「貘」のサイトの中に『元村正信の美術折々』というメニューのひとつを任せて
頂くことになった。「日記」ではないので、毎日更新という訳にはいかないが、
アートスペース貘で毎月見る展覧会の中からの感想を中心に、ギャラリー右奥のカフェ
「屋根裏貘」のカウンター越しに触れた人間模様、あるいは日々の思索や好きな散歩の
折々にすれ違った光景など、時には写真も交えながら、気の向くままに不定期ではあるが
すこしづつ綴って行こうと思っている。
たまには、息抜きがてら覗いていただければ幸いです。
元村正信
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美術折々_05
春の雨
どんよりとした灰いろの空から降る、肌をぬらす柔らかな雨。
こんな午前の、遅い朝でも人影はすくなく、水辺もひときわ静かである。
濡れ落ち葉を掃く箒の慣れた音だけが、耳もとに届いてくる。
アスファルト。不意にひとりの男から行く道をさえぎられた。
いま撮影中なので、少しだけお待ち下さいという。通行止めだ。
どれ位待つのか、一瞬尋ねたかった。
すると、目の前をコートを着たモデルらしき若い女性が傘も差さず歩いていく。
すぐさま、「カ-ット!」、 「もう一度!」の声が響く、そして通行止め解除だ。
「すみませんでした」と、男がこちらにひと言。
何かがぎこちない。
まだみな目覚めていないような、もの静かな雨の撮影現場。
映画ほど機材やスタッフの数も大袈裟ではないので、
何かのコマーシャルかプロモーションものなのだろうか。
まさかこんな雨の朝を待っていたのか、いやいや、たまたま今朝が雨になった
ということだろうと、独り言ちて再び歩き始めたのだった。
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美術折々_04
逆転への意志
塚原舞加の初個展 「残り香」は、紙にインク、アクリル、鉛筆などによる
ドローイング的絵画ともいえるモノクローム作品。
3月30日より同画廊で個展予定の、柴田高志作品との類似性を指摘するのは
たやすい。だがむしろ、塚原舞加の作品の方が、絵画性がより明確に表れている。
また柴田高志ほど細部への執着や偏執な描線の繰り返しに重きはなく、
何を描くべきか、なにを描こうとしているかの意識が、こちらによく伝わる絵であり、
細い線も、滲みも、すべてはそのために用いられているのだ。
ではそこにうごめいているのは、一体何だろう。人工と自然の混血。
エイリアンか、モンスターか…それとも無機物か。いや無論具体的な何かでは
ないはずだ。未来とも現在ともつかないこの地の光景に、それらが異物のように
交じり、しかも確かに眼球をもつ 「生き物」として点在し、その姿を潜めている。
この若い作家はいう。
「血と内蔵までも地の引力に沿い、生きるための圧を受け入れている。
果してそれでよいだろうか。その全ての認識を根本から覆したい。
真実を知る為に」と。そう、この小さくも、そして痛切な、逆転への意志。
だが、真実というものは容易には知りえない。
僕たちは、目先の適応関係に悩み振り回される必要などないはずだ。
まさにうごめくような、〈この世界との不適応関係〉の中にこそ、本当のことが
埋もれていることに気づくべきではないか。
僕たちの、日々の危うい認識への懐疑として、自問として、この個展を
見てみてはいかがだろう。
同展は3月15日(日)まで。
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美術折々_03
大塚咲×夕希 展_のこと
前回、じつはほとんどこの写真展のことに触れていないのに気づいた。
つい少年との出会いに気を取られてしまったようだ。
だから、この展覧会「MEME」のことも少し。
ふたりの女のみを被写体にしたフルカラー作品。
それぞれのセルフポートレートが含まれてもいるが、
写真家・大塚咲の写真展といってもよいだろう。
濃密な吐息、噛みころすような声、火照った肌に滲み出す汗、虚ろな瞳…。
じっとりと湿った、粘着質のものがそこかしこに溢れている。
すべては終ったのだろうか。
不在の女、あるいは男。ふたりの女に迫ったものの性そのものの不在。
いや、ここでは性の根拠そのものが見えないのだ。
朝霧にくるまれるように、いまも雨は降っている。
水辺の情景はすでに霞んでいた。
ついさっきまで愛したひとの姿が見えない。
ふたりの女はいったい何を想い、旅を続けたのだろうか。
冬も終る。そんな雨も、やがてあがるだろう。
同展は3月1日(日)まで。 美術折々_02
大塚咲X夕希 展
ちかい春の風がまじった昨夜とは違って、寒かったきょうの昼下がり。
屋根裏貘のカウンターで、初めて来たというひとりの少年と出会った。
彼はひとつ置いた左の椅子に腰を下ろすなり、「ブラック」といった。
懐かしい響きだ。
ブラック。もちろんコーヒーのことであるが、
つまり砂糖はいらないという注文のしかたである。
こんなオーダーの仕方ができる少年が持つ、懐かしさ。
そのまえに、僕は隣りの貘のギャラリーで、130点程もあろうかという
ふたりの女の吐息に充ちた生々しい写真の「熱」に接したばかり…。
初めて会ったこの色白の華奢な少年と、彼が吐いたブラックのことばの響きを、
当然その写真を見てきたであろう彼と、女たちの艶かしさを
重ねずにはおれなかたのだ。