美術家・元村正信氏に、アートスペース貘で見た展覧会の感想や
折々の事などを、美術を中心に気の向くままに書いてもらいます。 artspacebaku
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宿題のおわりと、はじまり
思えばこのブログも、2ヵ月ものあいだ放置したままだった。
いつものことだけれど僕の場合、個展が近づくにつれて「言葉」というものから段々意識が離れていく。
話したり、書いたり、本を読むことさえ億劫になり、どれも手につかなくなってきて、ある種の失語状態に
落ちいってくる。濃密な制作の時間というものは、他のものを否応なく疎外してしまう。
いやいや、要するに、日頃でもない余裕が、ますますなくなってくるという訳だ。
その個展も、やっときのう無事に初日を迎えることができた。
作品の「出来」については、見てくれる方々に委ねるしかない。
いまは少しの安堵に息をつきながら、またこのブログも少しずつ書いて行くことにしよう。
もし、お時間あれば、足を運んでいただき、ご批評をいただければ幸いです。
元村正信 2015.09.29
あるはずの 「境界」 、ないはずの 「境界」
先日、ある若い画家が自身のブログで、同じ世代の別の若い画家の、絵画による個展の感想を書いていた。
かなり鋭く的確な指摘で、注意深く読んだ。
そこでは、「絵画とイラストの違い」について触れながら、その個展に出品された作家の作品が、ほとんど
「イラスト」に見えたというもの。それは、なにもイラストであることを揶揄したり皮肉っている訳ではなく、そのようにしか見えなかったと言っているだけだ。
そう指摘した若い画家自身、「イラストと絵画」の違いは明確にあるが、「この感覚的な違いをいつまで経っても言語化できないでいますが」と、控えめに語っている。また、同じブログの中で「アートとデザインの境界」という似たような問題を引き合いに出して触れてもいた。
じつは僕が注視するのは、「イラストと絵画の違い」、「アートとデザインの境界」という以上に、それらの 〈境界なき広がり〉のことなのだ。そこには、イラストの絵画化と、絵画のイラスト化。あるいはデザインのアート化と、アートのデザイン化とでもいうべき事態が起こっているのではないか、ということだ。急激に進行するこれらの〈無限接近〉は一体何を意味するのだろう。
その身近かな例が、8月2日まで佐賀市の佐賀県立美術館で開かれている、
佐賀市出身のプロダクト・デザイナー吉岡徳仁による 「吉岡徳仁展 — トルネード」であろう。この個展は1983年開館の同館が今春リニューアルしたのを記念し、その改装・監修を手がけたデザイナー吉岡徳仁自身によるものだ。
半透明のストローを大量に使ったその作品は、まさに「インスタレーション」であり、「アート」でありまた「デザイン」であり、美術館に出現した巨大な「ウインドーディスプレイ」だと言うこともできる。ここにあるのは、〈境界〉を巡る超え難さや、悩ましさあるいは曖昧さといったものではなく、すでに 「表現」 には 〈境界がない〉 ということを前提にして始めて、この作品は成り立っているということではないだろうか。
それはちょうど、たやすく 国境を超えて行くグローバルな「資本」と、それを容認しながら、一方では、
かたくなに国境を、領土を、主張する「国家」との関係にも似てはいないだろうか。既存のさまざまな領域を
意識させながら、そのいずれでもない、ニュートラルで無国籍な〈空間〉を吉岡の作品は実現しているようでもある。〈不在の芸術〉とでもいうのだろうか。まさにこれを「アート」といえばアートであり、逆に「アートではない」といえばアートではない。どちらもありの、むしろそんな自由度を許容するひとつの巨大な「クリエイティブ・ワーク」だと言えるだろう。
だがそこには、これからあろうとする 〈美術〉 への問いかけは微塵もない。逆説的にではあるが、この作品はそこに不在の〈美術〉の現在への批判と同時に、それを取り巻く 〈境界〉上の自由な流動の空間へと、私たちを心地よく誘ってくれている。
そして、もうひとつそんな 〈境界〉 を考えさせてくれる展覧会が、
8月23日まで福岡市美術館 2階 企画展示室で開かれている 「彫刻/人形」 だ。
同館所蔵の、高村光雲、山崎朝雲、荻原守衛といった日本近代の写実的「彫刻」作品に加え、福岡の具象彫刻家や若手作家(彫刻から博多人形まで)の作品、さらにキャラクター、人体模型、そして今回の「目玉」ともいえる蝋人形「嬉野弁財天」までを一堂に並べたもの。学芸員の山口洋三によると、「決して『彫刻』とは呼べない『人形』の魅力を、当館所蔵の『彫刻』と比較してみることで紹介したい」(『エスプラナード』180号.2015年7月)とする、小規模ながら意欲的な企画である。
ここでは 「彫刻/人形」 というように、異なる二つの表現を対比的に捉えてはいるが、作品はいずれも、少なくとも「写実的」であるという共通項があるようだ。また彫刻と人形という、いわば〈異種交流〉の赴きを持ちながら、それがそのまま既存の「芸術」への懐疑と、新たな〈視点〉 を見る者にうながしているようにも思われる。
ただそこには、そのあいだの領域ともとれる、つまり人形とも彫刻とも取れなくもない、フィギュア的な要素のつよい造型物も多々あること。だから 「人形の魅力」 というより、見る者にとってその全体から受ける印象は、彫刻と人形、あるいはそのどちらとも取れるもの、の混在によって見えてくる 「困惑の魅力」 とでもいうべきものがあるのかも知れない。
ここで 「困惑」 というのは、先に言った〈境界〉を巡る超え難さや、悩ましさあるいは曖昧さのことである。だがそれでも、見る者の視線はたやすく 制度や 〈境界〉 を越えてしまう。つまり二重の困惑の経験がここにはあるのだ。
おそらく、彫刻と人形は違うと、多くは思うだろう。確かに異なるものだ。しかし、ここでの並置からはその比較よりも、なぜ彫刻は人形のようであり、なぜ人形は彫刻のようなのか、という互いの〈無限接近〉への、あるはずの境界をまたいでしまった私たちの、〈視線の膨らみ〉に気づかされるのだ。過剰な戸惑い、とでも言えばいいのだろうか。
〈境界〉はあるにしてもどのようにあり、〈境界〉がないにしてもどのようにないのか、という問いは、ここでも人形の彫刻化と、彫刻の人形化を、〈見るということ〉を通して考えることができる。それは当の作品だけでなく、見る者に対して示される新たな経験が、〈境界なき広がり〉として生まれているのではないだろうか。
すでに 〈リアル〉 であることも、なんらその通りの 〈現実〉ではなく、むしろ 〈ないはずのものがそこに在る〉 という、腑に落ちない戸惑いでもあるのだ。
ただことわっておくが、僕は 〈表現〉 というものに、もはやジャンルも領域もカテゴリーも存在しない、と考えている訳ではない。いやむしろ、芸術の表現自体の、『主格性』 こそが、問い詰められてもいると、考えて
いる。
「美術」もまた、〈境界なき広がり〉の趨勢に抗いながら、美術じしんによって、たえず 〈超え出ていく 美術〉 の内実が、作品が、問われているのではないかと思う。
(2015.07.29)
「わかりえない」ということ_(1)
先月、6月29日(月曜日)付の日本経済新聞朝刊文化面。
「『孫たちの戦後70年』 創作・研究の現場から」 という連載が目に留まった。
ひと口に戦争体験者の孫たちの世代(創作・研究現場にいる)といっても、おそらく上は現在50歳位から下は20歳位までの幅はあると思われる。いずれにしても、その多くは「戦争を知らない子供たち」の世代である「親」から生まれた「子」の世代のことである。
「戦争体験」の、いっさいの記憶も、風化も、そしてその継承も、いったい何と闘い、抗ってきたのだろうか、とあらためて思う。厳として闘い、抗っている人々が現にいるというのに。〈戦争体験〉というものが、たんに継承としての精神の順逆や尊い犠牲の上に築かれた〈戦争遺産〉に収斂されるのではなく、そんな体験が〈二度とあってはならない〉と誰もが叫んでいながら、その〈声〉が、なぜ今のわたしたちの日常に〈生かされて〉はいないのか。戦争体験を受け継ぐとは、そんなものだったのか。
わたしたちの今の〈日常の体験〉とは、その〈戦争〉とどう違い、あるいは違わず、つながっているのだろう。
日本の、戦後という空間の「成長」、その裏返しとしての凄まじいまでの忘却と空洞化。その無力を噛みしめ
ながら、グローバルな「富の偏在」 がもたらす、快楽と格差の皮相な程の、この充実振りはなんだろう。
やがて、この国の「戦争体験者」もほとんど途絶える時が来るだろう。それを仮に『戦後100年』 と呼ぶに
せよ。そのとき、未来のわたしたちは〈戦争体験の不可能性〉 に直面することになる。そんな時代の中で、
親と子、その「孫たち」は一体どう〈生きよう〉としているのだろうか。
長い前置きになってしまった。
さてその連載1回目に、沖縄を拠点に活動する気鋭の美術家・山城知佳子(1976年生まれ)が紹介されて
いた。
山城知佳子といえば、福岡では2年前の、2013年 福岡アジア美術館交流ギャラリーでの、九大AQAプロジェクトによる現代美術展「わたしの街の知らないところ − シンガポールと日本」に出品した映像と写真作品を見られた方もいるだろう。
今回、日経新聞の記事は、彼女の2009年の映像作品『あなたの声は私の喉を通った』 に触れながら、
山城知佳子の試行とその作品を手がかりに、孫たちの世代にとって『戦後70年』はどう受け留められているのかを、紹介しようとするものだ。
僕が関心を持ったのは、なにも山城が沖縄で生まれ育ち、そして今も沖縄を拠点に「沖縄」を通して活動して
いるからではない。
むろんそのことは、いくらでも語り語られてよいことではある。だがそれよりも、彼女がこれまで、「耳にたこができるようだった」と繰り返し聞かされてきた「戦争体験談」を踏まえてもなお、2009年の『あなたのはー』の制作時に、体験を語った高齢男性から受け取ったものは、「どこか遠い場所に行ってしまったようで、『自分にはこの人の体験を決して共有できない』 と思った」ということだった。
この『決して共有できない』という感覚は、かなり重いことなのではないだろうか。現在のコミュニケーション偏重の、盛んな異文化理解や異質な相手ともどこかで分り合える、そして伝わること、伝えようとすることを
重視する「表現」のありようとはまったく 逆のベクトルが、ここにはあるのではないか。
他者の記憶を継承することの 〈圧倒的な困難〉 を前提に山城は言う。「どんなに感情が震えても、わかったとはいえない」。「わかりえないものに対して、わかろうとする努力を捨てないこと」。そうしてさらに「言葉によって自分のメンタルを書き換えていこうと思う」と。
ちなみに、この連載の5回目(7月3日付)で、劇作家の古川健(36)が自らの演劇の創作について、「他人の経験は究極的には分らないのかもしれない。でもそこで突き放しては、人と人の間には何も生まれないのではないか」と語っている。
この両者には「わかろうとする」ことよりも、「わかりえないもの」に対しての接近の仕方。そこで生じる自らの動揺とそこからしか切り開かれようのない 〈伝達への回路〉が、自覚されてはいないだろうか。
僕は当然のように、ジョルジュ・バタイユのあの言葉、 「伝達不可能なもののみが、伝達するに価する」 を
ここでも反芻する。さらにまた、死を 「経験できないものの経験」 「不可能な経験」としたバタイユの言葉はそのまま、私たちが「戦争体験」の〈声〉を聞きながら、他者のひとりの〈死〉にさえ、決して近づけない圧倒的な困難さ、そのものでもある。
それでも山城知佳子の作品に通奏低音のように響き渡る、唄、声、そして肉体の、さらにそれらが錯綜する美しい残響にさえ、この「わかりえない」ということの核心を見逃し、あるいは聞き逃しては、何一つそこから始まりはしない、ということ。
山城知佳子の、映像は、言葉は、身振りは、そういう困難きわまる 〈わかりえない伝言の試み〉のように、
僕には思えるのだ。
(2015.07.04)
山本豊子 「fog_signal」
アートスペース貘では6年振りの個展。
山本豊子の作品をはじめて貘で見てから17年が経つ。福岡の他のギャラリーでの個展を含めこれまで7回ほど
見たことになる。
褐色を含めほぼモノクロームといってもよいそれらの作品は、どれも銅版や紙版、シルクといった版画をベースにしながら、ドローイングを拡張させたような「絵画」でもあり、時に大きな木箱に流し込み固めた石鹸や、
白いバスタブに鉄の四肢を付けたもの。あるいは木の机と椅子、金属缶、さらに映像、といった様々な素材を
用いている。いずれも「版」にとどまらない、物質性のつよい作品だ。
ちなみにこれまでの個展のタイトルをいくつか挙げれば、「達磨屋と逃亡癖」、「寝床で水牛が膝をうつ訳」、「賽の胡桃」、「天秤の山羊は巡る」、「シダ胞子の洋灰」、「起源の運搬」、「宇宙時代の独身主義、さえも」 などなど…。どれも、まるで難解でならす詩集のタイトルのようだ。
いやいやこんなことで、見る者はひるむ訳にはゆかない。むしろ山本豊子の作品は、タイトルに反し、すこぶるストレートだと思う。黒い漆黒のベタとそれにからまり縦横に奔る無数の鋭い傷。それらは自らの意志によって描いた線だけではなく、ゴミや汚れ、予期せぬ斑点、ノイズさえすべて画面に取り込んでいるようにも見えなくはない。
他の「オブジェ」だってそうだ。じつにシンプル。作家が企図したもの、コンセプトが、おそらくその通りに(もちろん制作上の格闘はあっても)、私たちに提示されていると言ってよいだろう。逆にいえば、見ることの破綻や嫌悪を起こさせない作品ともいえる。
それでも山本豊子の、この「寓意」に充ちたモノクロームの世界は、飽きることがない。
僕は以前から彼女の作品を見ながら、あのジュール・ヴェルヌの『海底2万里』の旅を思うのだった。あちこちと世界の果てを旅しながら、そこでの見聞、異聞や驚き、あるいは記録と伝承から触発され、ときに空想しつつ生まれてきたであろう山本豊子の「寓話的」世界の、そのどこからか聞こえてくる見知らぬ人たちの声。
この作家が、どのようなことを思い、何を考え、制作しているのかは知らないし、直接尋ねてもいない。
だが僕なりに解釈すれば、表層のみが露出し消費されてやまないこの時代に、おそらく山本豊子は、いま、ここにはないけれど、消え去ってしまった人間の営み、遺物や「物語の抜け殻」を、かつてあった古層を剥ぐようにして 〈伝播〉の跡形をすくい取り、それを絵の中に刷り込み、オブジェをかりて埋め込もうとしているのでは
ないだろうか。
これは、物語の再生でも記憶でもない。 なぜ私たちはかつて 〈そのようにあったのか〉 と問う作家の肉声にも聞こえるし、それはまた、私たちがいま 〈どのように生きようとしているのか〉と、自問することとも
重なっているように思えるのだ。
同展は7月5日(日)まで。
同じく 7月5日(日)まで 福岡市南区平和1-2-23 森山ビル1F の
ギャラリー M.A.P でも 版画とドローイングによる個展_山本豊子「カモメと腕木のメソッド」を開催中。
西鉄平尾駅から筑肥新道を小笹方面へ徒歩で約8分。合わせて見られてはいかがだろう。
今田淳子 個展
それは磔刑(たっけい)の十字架にさらされた人の化身か、あるいはコウモリの翼のようなものに絡まり咲こうとする花々。でなくば、子宮の告白としての血であり、そこから生まれ出ようとするものの息吹なのか。
ここには、西洋からの疎外と東洋の果てとのはざまで、長い異国での生活という時間のなかで、せめられ問われつづけた作家の、論理や理性に収まり切れない、女性の〈情欲〉といったものが極めて象徴的に吐露されては
いないだろうか。
画廊の四方の壁のひとつだけを使い、天井近くの壁に張り出し、下へ床へと流れ出すようにしつらえた黒い皮や赤い紙、布、糸、銅線といった様々な素材が織りなす、まるで神話から抜け出たかのようなオブジェからは、
習俗、血縁、その息苦しさや煩わしさゆえに、わたしたちがどこかで置き去りにしたままの〈情念〉が、
なまめかしく再来したかのようにも見えた。
じつは僕がこの20年以上、どんな作品(絵画や彫刻を含め、物の配置やそれらが置かれた空間との関係性)を
語るにせよ、さまざまな素材に沿いながらも、「インスタレーション」 という語をほとんど使わずに、むしろ
慎重に避けながら、場合によっては敢えて 「オブジェ」という古い言葉を選んで使っているのにも、それなりの理由があるからだ。
今田淳子の作品もDMの表記にしたがって言うのなら、新作の 「INSTALLATION」 というべきかも知れない。
しかし何度でもいうが、 「INSTALLATION」 と「インスタレーション」 は、異なるのだ。その差異を、
同一のものとして語るには無理がある。その齟齬を無視して粗雑に、一括りに“インスタレーション”と片付け
たくはないからなのだ。そういう平板な語りこそ、日本の、ものみな「アート化」する現在を、無批判に肯定
することにならないだろうか。
今回の今田淳子の 「INSTALLATION」 を、僕は「わたしたちがどこかで置き去りにしたままの〈情念〉」と言ったが、忘れさり葬り去った〈土俗〉の匂いさえ残存させる彼女の仕事は、わたしたちを囲い込む均質で
空虚な「アート」への批判にもなりえていると思うのだが、いかがだろう。
同展は6月21日(日)まで。
梅雨のほとりにて
若かった頃は、いつも春先になると言いようのない不安に戸惑い、その日通う道さえも心細く思ったものだ。
それは少年少女の、不安定な心もようだけでなく、ものみな芽吹くようにふくらみ始めてまだ落ち着かない、
華奢でやわらかな体つきそのものから来るものだったのかも知れない。
やっと二十歳を過ぎ、ちょうどそんな不安と入れ替わるように、美術家として個展をするようになってから何度となく見続けた強迫的な夢がある。それは、個展の初日を迎えたというのに、作品が全く出来上がっていないという夢である。何もないのだ。喉もとまで追いつめられいつも決まって、そこではっと目を覚ました。
そうしながら何度も個展や発表の場数を重ねるうちに、そういう強迫的な夢のようなものもいつしか遠のいていった。
よく、夢うつつというけれど、いまだってどこまでが夢で、何が現実なのかは本当のところ分りはしない。
「夢が現実になった」という話しはどこかで聞くことがある。だが現実というものが、夢ではない証しなど
ほんとうにあるのだろうか。
一見当たり前のように「ある」と思い込んでいる目の前の現実というものが、《 けして触れることが出来ない
現実 》であることを、わたしたちはそれを敢えて遠ざけることによって( むろんそこに多くの錯誤や欺瞞、
虚偽は付け込むのだが )かろうじて現実(あるいは夢)というものを生きて行くことができる。
だから、夢と現実が、ぴったりと重なりあうことはないはずなのだ。なぜならそのズレによって、その裂け目や溝の深さによって、わたしたちは、日々というこの苦痛と、儚さと、快感が、見さかいもなく交じり合った日常を、病みながらも、しのぎ、超えて行くこともできるのだから。
初夏のあと、梅雨のほとり。穏やかな青灰色の水面の果てには、地とも空ともつかない無限の余白がどこまでもひろがっている。
(2015.06.10)
北村ケイ写真展 「arabesque」〜彼等の肉体でいっぱいの〜
幻想、人形、少年、ノスタルジー、そして稲垣足穂、タルコフスキー、ベルメール ……。
もうおわかりだろう。これらはみな、写真家・北村ケイが一途に偏愛してきたものたちである。
それでも不足というなら、澁澤龍彦、バタイユ、フーコー、さらにニーチェまで召喚させてもよい。
熱狂的ファンを持つその濃厚でアンダーグラウンドな、北村ワールド無銭興行 「arabesque」2015 全開中。
またしても、エロスとタナトス、比喩としての水、闇、肉体、緊縛、虚々実々のセクシュアリティー渦巻く、
わたしたち人間の素性が、健全な肉体が、逆説的にせよあらわにされているのだ。
「彼らは新しく、奇妙で、美しい」 と北村はいう。
そんな北村ケイにとって、「写真」とは一体どういうものなのだろう。
僕からみれば、北村ケイの写真は、彼女の体内からほとばしり湧き出てやまない〈幻想綺譚〉さえも、文字通り写し撮るための、冷徹な〈媒体〉のように思える。見る者にとっては、見る者自身の抑圧されたままの無意識や、忘れ去ったままのいびつな夢の錯綜が、あたかも鏡に映し出されたものを見せつけられたような写真とでも言えばいいのだろうか。
ここにあるのは〈美のはかなさ〉ではなく、見分けのつかない性であり、異化され続ける「彼ら」の、性差不明の肉体そのものではないか。暴かれた数々の道徳幻想は、過剰な装飾をまとい、無言の喘ぎ声をあげている。
北村ケイの写真は、写真とはことなる写真。まさにトランスフォトグラフ(異なる写真)と呼べるものなのではないだろうか。あまたの「幻想的写真」あるいは「写真にとっての幻想」とも明らかに違う、執拗につくり込ま
れた〈舞台の上〉に〈写真〉がある。
それでも写真にとっての瞬間は失われてはいない。この幻想。つまり、触れ得ない現実(外的世界)と、写真(内的世界)とのあいだに、北村ケイという奇異な作家が立ち尽くしている、ということを忘れないでおこう。
生の否定へと働く グローバリズムの巨大な力は、世界の隅々までをも、快適さで彩り、快感で縛り、骨の髄
までむさぼり続けようとしてやまない。
ニーチェは言っている 「芸術は、生の否定へのすべての意志に対する無比に卓抜な対抗力にほかならない」。
でっち挙げられた規範や道徳とは最も遠いところに、北村ケイの写真はある。彼女の写真も、この「無比に卓抜な対抗力」のひとつに違いない。その異形の、アンダーグラウンドな作品は、もちろん我らがまぶしき世俗とも
地続きなのである。
それらはまた、縛られ続ける従順なわたしたちの着衣を剥ぎ、あるいは過激に焚き付け、鼓舞しているようにも見えるのだ。
同展は6月7日(日)まで。
末藤夕香 展
五月のつよい陽射し。
初夏の心地よい風とともに、目にも鮮やかな新緑溢れる季節の中をぬって、久しぶりにみた末藤夕香の個展は、
そんなまばゆい緑から抜け出てきたような、艶のある何種類もの濃淡の異なる緑の色糸にくるまれた、11個の
「オブジェ」を床や壁に配したものだった。
それらをいま僕は、仮にオブジェとよんでみたのだが、これらの中身は、たぶん椅子や腰掛け、それに木枠や
雑貨のようなレディ・メイド、もしくは手製のものだろうか。つまり多くは既製品を、無数の束ねた糸で被い
包み込むようにしてその「原型」を隠したものだ。
原型を隠すとは、それが持つ本来の機能や用途を一度閉ざすこと。それでも形そのものが歪められているという訳ではない。だから見るものは、糸におおわれた奇妙な「品々」に親しみとも困惑ともつかない感情を抱くことになる。
それは、「家具か小道具にも似た観葉植物」と声にしたくなるものだった。複雑な感触とでもいうものがここ
にはある。一見無造作に配置されたかにも見えるそれらのあいだに、緊張感といったものはない。むしろ誰かの「部屋」にでもいるかのようなある種の安堵感。この「誰か」とは、むろん末藤夕香のことである。もちろん
僕は彼女の部屋のことなど知るよしもないし、また実際の部屋であるはずもない。
時間を少し過去に戻すと、ある時期を境にこの作家は、それまで取り組んできた彫刻作品から〈極私的空間〉へと転出している。これは僕の憶測だが、末藤夕香は自分の〈居場所〉を仮構しながら、自らの他者、世界という外部を、そこに取り込むことで自身の〈傷〉を見つめ直そうとしてきたのではないか、と思うのだ。
もともと彫刻家として出発した初期から用いてきた石膏、樹脂、鉄、木といった素材から、やわらかな布、綿、壁紙や私的アンティークの数々、そして糸にいたるまで。すでに25年が経っていた。
なんどもフランスと福岡を往復しながら、彼女は何を見つめ考えてきたのだろう。
僕は早くからこの作家の、彫刻家としての才能に注目してきたものだ。彫刻から非-彫刻としての極私的空間へといたる展開。近年の作品を見ていると、多分に手芸的でありながらも〈非-手芸としての物〉の可能性、と
でもよんでみたい願望に駆られる。
末藤夕香という作家は、いまも変わらず鼻っ柱がつよいのだろうか。
かつてボルドー郊外の果てしなく続く葡萄畑の中を、愛車プジョーのハンドルを握りしめ、まっすぐに風を切り
猛スピードで疾走していた作家の姿が、いまも重なる。
鮮やかな新緑は、なおも作家を励ましてくれることだろう。 われに五月を。
同展は5月24日(日)まで。
「ART」と「アート」は、同じなのだろうか_その(1)
日本のカタカナ語彙の中で、この20年間で加速度的に氾濫したと思われるもののひとつに〈アート〉がある。
西欧語の「ART」の翻訳語として、この国では近代以降、それを「美術」あるいは「芸術」と訳し使用して
きた。かつて西欧語の受容翻訳によってこの国は、さまざまな西洋の概念を母語に移殖することによって
〈日本〉という近代を成し遂げてきたと言ってもよいだろう。「ART」と「芸術」の関係もまたしかり。
だが今「アート」という言葉はそんな翻訳語が持っていた概念をも棄て、西洋の「ART」を表音化しただけの
ものになってしまった。意味ではなく音(おん)のみが、口当たりのよいムーディーな響きのみが残り、漠然と一般化してしまったのである。じつは、この〈翻訳語喪失〉の問題は私たちにとって大きいはずなのだが、
ほとんどなし崩し的に「近代」そのものの財産が無化されていると言えないだろうか。負の近代化遺産として。
もちろん、いまさら近代が消失して何がいけないのか、と言うこともできよう。「ART」が「アート」になったのだから、むしろその方が自然ではないか、分りやすいという訳だ。
しかし、〈ART〉を問うことと、〈アート〉を問うことは、同じことではない。なぜなら、ここには文化を異に
する二重の言語があるからだ。いまの世界を牽引するグローバリズムの奔流の中にあって、なおも普遍性を
持ち、それ自体への問いを手放してはいない〈ART〉という概念(もちろん拡張や拡散はあるにしても)と、
わがカタカナの「アート」という気楽で空虚な響きを帯びた言葉とを、改めて比肩してみたくなるのは私ひとりだけだろうか。近代語(日本国語)としての「美術」も「芸術」も放擲したかに見える今。
でもなぜ、そんなことを百も承知で日本の現在の「美術業界」の多くは、都合よく「アート」を標榜し、自らをそう呼んでいるのか。それは日本の、いわゆる「現代美術」の崩壊と無関係ではないと思われる。
いわゆるポスト現代美術の受け皿としての「アート」は、いかにも「現代性」と「市場性」そして「自由」を
合わせ持っているようにも見える。しかも、ここには既存の価値への懐疑、既成概念や制度への抵抗あるいは
否定性を骨抜きにした、グローバリズムのイデオロギーそのものが反映されてはいないだろうか。
僕はその「現代美術」崩壊の分水嶺を、約20年前の1995年頃だとかんがえている一人だ。
ちなみにこの年は、ちょうど100周年を迎えた第46回ヴェネチア・ビエンナーレの年に当たっている。
(興味ある方は歴代の日本代表作家を追ってみれば、日本の「現代美術」の変質と消失の一端を知れるだろう)
また「アート」については、美術評論家の椹木野衣氏が、美術手帖2010年11月号の『後美術論』の第1回連載の冒頭で「非歴史化の進行のなかで強制終了させられる現代美術に代えて、あえて空虚な表音語「アート」を
用いる」と表明している。
(2015年3月に刊行されたその単行本『後美術論』では本という構成上からだろうか冒頭部は省かれている)
その本文ではズバリ「日本語でアートはあらゆるものを指し示す」という。
つまり、なんでもアートということだ。その通りだろう。
それでもさらに「むしろ、歴史や定義の重力から解き放たれた、この「響き」を存分に活用することで、日本語のアートでしか可能にならないような、自由で無方向な文化の運動を思い描くことはできないか」と、野望ともつかぬ希望を語っていた。この1回目前半部には、するどく的確な「アート」理解が散りばめられているので、
いまの空虚な「アート」を肯定するにせよ批判的に考えるにせよ、連載を読まれていない方は参考のために
一度単行本を手に取ってみられてはいかがだろう。
そして、それらを踏まえた上でなお、そのような「アート」ではなく、「自由で無方向な文化」の中ででも
なく、私たちが喪失した「美術」の、「芸術」の、空洞化の真っ只中で〈現代美術以後〉の、これからあろうとする〈未来の美術〉をかんがえ抜いてみたい、見てみたいと、あえて僕は思うのだが。
(つづく)
安部義博 ・ 2015
このところモノクロームベースの個展が続いていたアートスペース貘で、久しぶりに色彩の渦に囲まれる。
鮮やかさと、一方で濁りくぐもった色彩とが入りまじる激しくも混沌とした画面は、うららかな春霞に慣れた
こちらの目を一気にさませてくれた。
それは、初夏のつよい陽射しが突き刺さるような、荒ぶる筆触で埋め尽くされた、安部義博の絵画のこと。
もちろん、私たちはかつての抽象表現主義やフォーマリズム、モダニズム絵画と呼ばれたものを知らない訳では
ない。だがことさら安部の作品にそれらを引き付けて「現在」を語る錯誤だけは、まず避けておきたいと思う。
ただ少なくとも、ポロックが自らの作品について「何かを絵の中に探すべきではなく、絵に対して受動的になることが重要である」と答えたことは、いまもって可能であろう。無論、安部義博の絵画についてもである。
しかしこの「受動的になること」は、案外むずかしいものだ。見る者は当然、絵の「中に」何がしかの主題や
意味内容を求めたくなる。だが受動的になるということは、自らの経験や偏見、先入見に抗わねばならない。
ひたすら、絵に添うこと。今風にいえば、全肯定。あるがままを受け入れることになる。はたしてそうなのだろうか。いやそれこそが最も困難なはずだ。ましてや、どんな絵であれ共感ばかりとは限らない。ときに反感や、嫌悪さえいだくこともあるのだから。
むしろ人間というものは、視覚は、見えるものを「見えた通り」に受け入れることなど出来やしないのである。
じつは、見たいものしか見ていないというのは真実でもある。では私たちは、安部義博の絵画を前にして一体何を受けとめることができるのだろう。
白いキャンヴァスを埋め尽くすように縦横無尽に描きなぐられた粗野で荒々しい筆致は、収まりのつかない画家
じしんの欲動のようにも見える。だとしてもそのどれ程を、私たち見る者は理解できるのだろうか。ここには、肯定と否定の意志が錯綜し、打ち消し合い、あるいは重なり、もつれながら〈風景〉ならざるものが、世界の
何かが、描かれようとしているようにも見えるが、もちろんそれさえも、私ひとりの思い込みにすぎない。
複雑に入り組み、絡み合った画面そのもののように。何か答えを探すでもなく、行き着く当てのない問いを発し
つつ、描いた者も、そしてそれを見る者も、たがいに異なる場所から自らの他者を意識したまま、一片の絵画を
介して、ただ立ち尽くすしかないことだけは確かなようだ。
絵に対して「受動的に」なれるかどうかは、どうじに能動的に向き合えるかどうかに係ってもいる。
ポロックが語ったように「何かを絵の中に探すべきではない」のであれば、私たちが受けとめるべきものは、
いくら恣意的でさえあっても、やはり見ることの能動性の中にこそ、発見されるべきものだろう。
こうして安部義博の絵画に、いまも〈囲まれながら〉そんなことをずっとかんがえている。
同展は4月26日(日)まで。
柴田高志個展 「回帰」
これでもかこれでもかと、渦巻くように繰り返される細密な線描画。
凝視すればするほど、気の遠くなるようなその描線の行方に、時として見る者は自らの視線を失いかける。
それはこの作家が作画について語っているとおり、「エネルギーの塊のようなものに『不明』を纏わせ」て
いることと無関係ではないようにも思う。つまり、絵というものは緻密であればあるほど、そこに見る者は
感嘆するという傾向があり、それに対してこの作家はどこかでそれを意識的に遮断しようとしているのでは
ないだろうか。
アートスペース貘での初個展から7年。これまでその作品の多くは、墨を使い白い紙にペンで描いてきた。
だが墨らしい滲みやぼかしはむしろ少なく、今回、蝋を垂らすなど新たな試みも見られるが、やはり鋭い
ペン先から繰り出される「線」に執拗に拘ってきた作家と言ってよいだろう。
すでにドローイング作品として賞を得るなど、その評価とこれまでの活躍はよく知られるとおりだ。
では、柴田高志はいったい何を描こうとしているのだろうか。この不気味な、奇怪な、捉えどころのない
画面。いや、もっと引き付けて読むなら、人や生き物の艶かしさ、底知れぬ妖しさ。そしてこの世のものとは 思えぬ異形のかたち、異界のものたちのうごめき、さもなくば修羅幻想の妄執なのか。
だが作家は、そのすべてにノンという。であるなら、私たちはこの絵の前で、線の前で、逡巡し続けるしか
ない。
かつて小林秀雄は、『ドストエフスキイ』の中で、「ドストエフスキイの作品の奇怪さは現実そのものの
奇怪さ」だと言った。さらに「ドストエフスキイのいわゆる不自然さは彼の徹底したリアリズムの結果で
ある、この作家が傍若無人なリアリストであったことによる。外に秘密はない」とまで言い切っている。
このような文をあえてここで引いたのは、唐突に過ぎるかもしれない。
しかし、ここには何か柴田高志の、作品の「内密」に触れるものと重なるものがあるような気がしたのだ。
もし柴田高志の絵をひとりの空想からではなく、うごめく「現実そのもの」から生まれてくる奇怪さであると
するなら、この若い画家に見えているのは、美しくも醜悪な線描画として現れてしまった〈現実の相貌〉だと
は言えないだろうか。それが、彼の絵の「わからなさ」の魅力なのかもしれない。
5月からは東京にも新たな拠点を持つという。いっそうの飛躍を期待しよう。
同展は4月12日(日)まで。
Where have all the flowers gone?
桜の花咲く季節に、多少ともこの国に暮らしたことのある人なら、淡い色に染まった野山や、ざわめく街角
にも訪れた春とともにそこで味わう悦びや苦みを、誰しも少なからず知っていることだろう。
そして満開の桜を愛でる人の波もまた、花の数に負けてはいない。
毎年花見客で賑わう舞鶴公園、福岡城跡のはずれ、東側の石垣下。旧平和台球場跡裏に
ひっそりと建つのが、福岡市の鴻臚館跡展示館である。
この展示館は1995年、ちょうど今から20年前にできている。
建物の南東に広がるだだっぴろい敷地を囲むように土手が残っているのだが、かつてはその土手に沿って
大きな桜の並木があり、桜の頃になると僕は毎年ひとりここへ来て、ひんやりとした花冷えの土手に
腰をおろし、その下のテニスコート(これも今はない)に散りゆく花びらを眺めていたものだ。
この光景は、鴻臚館跡展示館ができる前、つまり20年以上前のことである。
でもなぜ、それと同時にあの大きな桜の並木はことごとく引き抜かれねばならなかったのだろうか。
開発と遺跡発掘は、同じ硬貨の両面だと、ある専門家に教えられたことがある。
花の美しさというものに、異を称える人はおそらくいないだろう。
だが風景の変貌とは、ある日突然おとずれるものである。満開の桜とて例外ではない。
もろともに我をも具して散りね花
憂き世を厭ふ心ある身ぞ 西行
これは 「私も、この世を嫌に思っている。だから花よ、私を連れて一緒に散ってくれないか」 という
意味の歌らしいが、
ここには歌人西行の、時代に対する違和、そして生と死への、壮絶な覚醒が込められてはいないだろうか。
かつてピーター・ポール&マリーがカバーした『花はどこへ行った』という歌の最後に、
「いつになったらわかるのだろう」というフレーズがあるが、「憎悪の連鎖」を安易に嫌悪し批判する
私たちに、一体、わかる、という日がいつか来るのだろうか、とも思う。
満開の桜が、いともたやすく喪われてしまわない、そんな春であるように。
六本松遠景
きのう、思い立ち久しぶりに、六本松まで歩いた。
この頃、この街へ行くのは、もっぱら蕎麦を食べる時のみになってしまった。
昼前の開店早々に、暖簾をくぐる。店の奥からは、てきぱきとした仕込みの音が響く。
きょうは島根の酒、冷えた「王禄」を飲みながら、もりそばを頂いた。
そば湯が出てくる頃には、もう昼時だ。
さあそろそろ、席が埋まっていく店を後にしよう。
そうしてそこから別府橋大通りに出て東に向かえばすぐ、かつての九州大学六本松キャンパス
(旧九大教養部)の、大きな空洞のような跡地が広がっている。
地下鉄七隈線六本松駅辺りの交差点からは、この空地越しに谷から続く輝国の丘陵まで
遠く見渡すことが、今なら出来るのだ。いまならと言ったのは、もうすぐこの跡地には大型マンション、
複合施設が立ち、さらに裁判所、検察庁などの移転も控えている。いわば、つかの間見晴らすことのできる
「空洞」を、僕たちは他人事のようにして目撃していることになる。
ここには、かつての学生達の賑わいも、あの闘争も、催涙弾の硝煙に滲んだ正門前の街の光景も
すでにない。古い記憶や感傷など何程のものか、とでもいいたげに。しかも人間は相変わらず貪欲である。
新しいプロジェクトは、別種の「賑わいを創出しよう」と粛々と進行しているのだ。
なぜいつも、なんの謂われもなく、「風景」というものは、こうして唐突に変貌せねばならないのか。
たとえ〈近代〉というものが消滅したにせよ、解体も再生も、さらなる崩壊の後も、このようにして
延々と風景の「創出」は繰り返されて行くのだろうか。
その傍らにはいつもひとり、ぽつんと置き去りにされている、わたしたちがいる。
遠景とは、こうして眼の前に広がっているにも関わらず、同時に幾度となくわたしたちじしんが
葬り去ってきた、そしてこれからも生まれては葬り去って行くであろう、
眩しすぎる未来の光景のことかもしれない。
春の雨
どんよりとした灰いろの空から降る、肌をぬらす柔らかな雨。
こんな午前の、遅い朝でも人影はすくなく、水辺もひときわ静かである。
濡れ落ち葉を掃く箒の慣れた音だけが、耳もとに届いてくる。
アスファルト。不意にひとりの男から行く道をさえぎられた。
いま撮影中なので、少しだけお待ち下さいという。通行止めだ。
どれ位待つのか、一瞬尋ねたかった。
すると、目の前をコートを着たモデルらしき若い女性が傘も差さず歩いていく。
すぐさま、「カ-ット!」、「もう一度!」の声が響く、そして通行止め解除だ。
「すみませんでした」と、男がこちらにひと言。
何かがぎこちない。
まだみな目覚めていないような、もの静かな雨の撮影現場。
映画ほど機材やスタッフの数も大袈裟ではないので、
何かのコマーシャルかプロモーションものなのだろうか。
まさかこんな雨の朝を待っていたのか、いやいや、たまたま今朝が雨になった
ということだろうと、独り言ちて再び歩き始めたのだった。
逆転への意志
塚原舞加の初個展 「残り香」は、紙にインク、アクリル、鉛筆などによる
ドローイング的絵画ともいえるモノクローム作品。
3月30日より同画廊で個展予定の、柴田高志作品との類似性を指摘するのは
たやすい。だがむしろ、塚原舞加の作品の方が、絵画性がより明確に表れている。
また柴田高志ほど細部への執着や偏執な描線の繰り返しに重きはなく、
何を描くべきか、なにを描こうとしているかの意識が、こちらによく伝わる絵であり、
細い線も、滲みも、すべてはそのために用いられているのだ。
ではそこにうごめいているのは、一体何だろう。人工と自然の混血。
エイリアンか、モンスターか…それとも無機物か。いや無論具体的な何かでは
ないはずだ。未来とも現在ともつかないこの地の光景に、それらが異物のように
交じり、しかも確かに眼球をもつ 「生き物」として点在し、その姿を潜めている。
この若い作家はいう。
「血と内蔵までも地の引力に沿い、生きるための圧を受け入れている。
果してそれでよいだろうか。その全ての認識を根本から覆したい。
真実を知る為に」と。そう、この小さくも、そして痛切な、逆転への意志。
だが、真実というものは容易には知りえない。
僕たちは、目先の適応関係に悩み振り回される必要などないはずだ。
まさにうごめくような、〈この世界との不適応関係〉の中にこそ、本当のことが
埋もれていることに気づくべきではないか。
僕たちの、日々の危うい認識への懐疑として、自問として、この個展を
見てみてはいかがだろう。
同展は3月15日(日)まで。
大塚咲×夕希 展_のこと
前回、じつはほとんどこの写真展のことに触れていないのに気づいた。
つい少年との出会いに気を取られてしまったようだ。
だから、この展覧会「MEME」のことも少し。
ふたりの女のみを被写体にしたフルカラー作品。
それぞれのセルフポートレートが含まれてもいるが、
写真家・大塚咲の写真展といってもよいだろう。
濃密な吐息、噛みころすような声、火照った肌に滲み出す汗、虚ろな瞳…。
じっとりと湿った、粘着質のものがそこかしこに溢れている。
すべては終ったのだろうか。
不在の女、あるいは男。ふたりの女に迫ったものの性そのものの不在。
いや、ここでは性の根拠そのものが見えないのだ。
朝霧にくるまれるように、いまも雨は降っている。
水辺の情景はすでに霞んでいた。
ついさっきまで愛したひとの姿が見えない。
ふたりの女はいったい何を想い、旅を続けたのだろうか。
冬も終る。そんな雨も、やがてあがるだろう。
同展は3月1日(日)まで。
大塚咲X夕希 展
ちかい春の風がまじった昨夜とは違って、寒かったきょうの昼下がり。
屋根裏貘のカウンターで、初めて来たというひとりの少年と出会った。
彼はひとつ置いた左の椅子に腰を下ろすなり、「ブラック」といった。
懐かしい響きだ。
ブラック。もちろんコーヒーのことであるが、
つまり砂糖はいらないという注文のしかたである。
こんなオーダーの仕方ができる少年が持つ、懐かしさ。
そのまえに、僕は隣りの貘のギャラリーで、130点程もあろうかという
ふたりの女の吐息に充ちた生々しい写真の「熱」に接したばかり…。
初めて会ったこの色白の華奢な少年と、彼が吐いたブラックのことばの響きを、
当然その写真を見てきたであろう彼と、女たちの艶かしさを
重ねずにはおれなかったのだ。
はじまりに
今回から「貘」のサイトの中に『元村正信の美術折々』というメニューのひとつを任せて
頂くことになった。「日記」ではないので、毎日更新という訳にはいかないが、
アートスペース貘で毎月見る展覧会の中からの感想を中心に、ギャラリー右奥のカフェ
「屋根裏貘」のカウンター越しに触れた人間模様、あるいは日々の思索や好きな散歩の
折々にすれ違った光景など、時には写真も交えながら、気の向くままに不定期ではあるが
すこしづつ綴って行こうと思っている。
たまには、息抜きがてら覗いていただければ幸いです。
元村正信