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美術折々_306
非アート化する芸術のゆくえを
11月22日までアートスペース貘で開かれていた「ケモノ美術作家」を自称する、堀本達矢の Meet the KEMONO - 興味編 - 。
これについては14日付の「アートスペース走り書き_09」で少し触れた。
この個展を見るために、僕はあらかじめ twitter上で未知の彼をフォローした。貘の個展の直前まで大阪・阪急梅田百貨店のコンコースウィンドウに展示されていた、彼の白い「ケモノ」へのファンたちのtwitterでの反響の数はすごかった。今回の貘での個展でもそれに応えるツイッターやギャラリーの感想を見たり読んだりしていると、彼のファンというもののある偏りが半端ではないことが分かる。
それは何かというと。その多くの反応がいわゆる美術や芸術、つまり「アート」というものに必ずしも関心を持ってはいないということだ。彼らファンのアカウントを見るとそのほとんどが、漫画・アニメ、ゲームやキャラクター・着ぐるみ、獣人・ケモノといったいわゆる擬人化系のサブカル好きの人たちといってもいいだろう。
その感じ方を見てみると。うっとりする、神々しい、見飽きない、憧れるといった感情移入がストレートで、まるでそこに没入するかのようなのだ。だから小品・作品集を含め売れるのもよく分かる。ここではすでにアートとサブカルというものの区別も違いも境界もない。彼らにとってはフィクションとしてのサブカルが、現実であり生活そのものとなっているようだ。
このことは裏を返せば1990年代後半以降の「日本のアート」は、ポケモンを始めとして村上隆や奈良美智たちの影響が、アート以外の関心事つまり漫画やアニメ、ゲーム世界の嗜好者たちがアートを侵食するようにして拡がったことによって、その転換期を迎えたことと無関係ではないだろう。それは、いわゆる「現代美術」崩壊後の美術/芸術が「アート化」し、またそのアートがその後さらに《非アート化》して行く過程でもある。
見て感じるほうからすれば、もはやアートである必要よりも、ことさらアートでなくてもよい自然の声の方が多数なのだ。僕はそのことを今回の堀本達矢の個展によって改めて考えさせられた。これから美術予備校や美大・芸大のシステムのなかで旧来の芸術教育を受けながら、いっぽうで新しい現実に立ち向かわねばならない学生たちの多くは、むしろ非芸術的ともいえる「非アート」の表現を同時に生きるということになるだろう。いやすでにそうなっているのだから。
これまでの「芸術」は、古典を始めかつてあった芸術として認知され評価され遺産化されていく。「芸術の自律」と言われたものは、すでに遠い過去のものとなってしまった。だからこれからの《芸術》はこれまでの拡張とは逆に、もっと狭く鋭くなおかつ険しい領域を切り開くしかないのかも知れない。
そこにもし《芸術》というものが可能なら、それは断崖絶壁のような怖ろしい領域なのだろうか。それでもよろしければ、と冷たく励ましながらも、世界はきっと《芸術》を残すだろう。しかしそんな芸術にこれからの若い世代は、はたして興味をいだくのだろうか。それでもこの世界に、たったひとりでもいる限り《芸術》は最後まで探求されるに違いないことを、僕はどこかで信じようともしているのだが。