元村正信の美術折々/2019-01-27 のバックアップ(No.3)


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美術折々_189


ゴルフも、芸術もまた


このあいだスポーツ紙に目をとおしていたら、あるベテランのプロゴルファーが「ゴルフは感性だ」というようなことを書いた寄稿記事に目がとまった。僕はゴルフとは無縁なので専門的なことは全く分からない。でも、
ゴルフは感性だなんて、と思わず疑った。技術力と精神力それに身体能力じゃなかったのか。「芸術は爆発だ」に、ほとんど近い。「芸術は感性だ」と誤解されるのなら、まだ分からなくもないではないが。

ゴルフは精神力が7割で、技術力が3割だという人もいるし、少し笑えるが感覚でスイングしろという人もいるらしい。では「感性」はどこで発揮されるのか。どうやら、精神力でも技術力でもない「感性の力」によって、それらの力をさらに高めることができる、ということのようだ。前にも言ったが、感じ方、感性というものは誰にでも備わっているしそれ自体に優劣などないと僕は思っている。じつは感性云々というのは、相当あやしいものではないのだろうか。鋭い感性、とかいうアレである。感性に判断基準などないし、感性の価値評価など一体だれができるというのか。だったらそれが何の力になるのだろうか。

おそらくこういうことなのだ。つまり、イメージをコントロールし、コントロールをイメージする力。
野球でいえば、キャッチボールが分かりやすい。相手のグラブに向けてボールを投げる時、投げる力はもちろんいるが、ただやみくもに投げる訳ではない。投げようとする直前に、グラブにむかって球が運ばれていく最短の道すじを誰だってイメージしているはずだ。ゴルフなら、ピンめがけて距離を測り打球を飛ばすということが、これこそ「イメージをコントロールし、コントロールをイメージする」ことになるだろう。

じゃあそれが、精神力でも技術力でもない「感性の力」と言えるのだろうか。たぶんそれは感性ではなく、思い描く力のことなのだ。しかしそれがどれほど優れていたとして、イメージ上で最短の道すじが見え、読めたと
してもその通りに投げ、打ち、飛ばすには、思考もいるし、やはり高度な技術もいる。そしてそれを支える強靭な精神が不可欠だろう。だからいっそう感性の根拠というものは、あやしくなると僕は思うのだ。

感性ついでに私たちの芸術もまた、あやしい感性を根拠とするのではなく、自らの抵抗力、思考力、
技術を、イメージを、さらなる高みへそして「芸術」へと離脱させたいものである。