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美術折々_50
「ヒトはなぜ絵を描くのか」 と問うこと (2)
前回、美術批評家の中原佑介の編著書をもとに「ヒトはなぜ絵を描くのか」 について少し触れた。「洞窟画」
以前に描かれていたであろう「絵」が今のところ発見されていない以上、「絵を描く」という行為の始まりへの問いが洞窟画に集中しがちなのは、ある程度仕方がないことなのかも知れない。
だが、人類史において「ヒト」が「人間」へと進化する一方で、それと同じように「絵」もまた現在の「美術」や「芸術」へと一直線に進化してきた訳では決してない。ある学者は「ヒトは人間へと退化した」と自嘲を込めて語ったらしいが、「絵」も多様に過剰に描かれ進化したはずの果てに、フラットな「アート」へと拡散し
「退化」してしまったと逆説的に言えなくもない。
たしかに洞窟画は今も、「なぜそこに、そのように、何のために…」といった数々の問いが解けぬまま残され
ている。それでも人間はこんにちまで 「描く」ことを拡張し続け、「芸術」の概念を問い、その自律性を問い
続けている。
「ヒトはなぜ絵を描くのか」 という問いは、じつは「人はなぜ生きるのか」と問うことと位相を同じくする。
もちろんそんなことを問わずとも、人はただ生きることを生きているだけなのだから、同じように人間には
「描く」という欲求や衝動が備わっている以上、描き続けるのは当然だという見方もあるだろう。
でもなぜ、ヒトは「絵」というものを生み出したのか。そうでなくともよいのであれば、なぜ「絵画」という
ものが自律的に探求されてきたのか。なぜ長い時間をかけて「美術」は『美術』として、「芸術」は『芸術』として自律せねばならなかったのか。いやもうすでにジャンルなどない、境界を超えていまや「アート」という名において人間の文化的、創造的な営みが高度に流通し実現され、生きることそのものへと進化したのだと説く人もいよう。
しかしほんとうにそうなのだろうか、と僕は思う。かつてハイデッガーは「石は有用性のうちに消滅する」(『芸術作品の根源』)と言った。まさにその通りに石器も道具として消滅した。たしかに現在の「絵」は、
絵画という商品の「有用性のうちに」生きながらえているのかも知れない。「絵」というものは、それに同調
するかのように道具そのものと化し、空洞化してはいないか。そしてなお、かつての石器のようにいつかは
「有用性のうちに消滅」しないと、はたして言いきれるのだろうか。
前回の最初にいったように「ヒトはなぜ絵を描くのか」 という問いは、永遠に答えようのない問いではある。
ただ、「絵」には〈絵それ自体の内へ〉という、むしろ私たちが〈見た〉ことの経験、記憶の蓄積を裏切り否定してもなおそこへと収斂させる〈磁力〉のような何かがあるのではないか。そしていまだ見たことのないものを《見よう》とする可能性あるいは不可能性を絶えず「絵」そのものに還元させようとする慣性とでもいうものがあるのではないか。何ものからも抑圧されずに〈静止〉し続けようとする力が、どこかで「絵」というものの内へと向けて、いまも作用しているのではないだろうかと僕は思う。
だとすれば未来の『絵』もまたこれまで培われたきた絵を絵画を、裏切り否定する力が込められているはずだ。
そして「絵」とは、絵というものの内へと向かいながら、手が触れるところにありながら、絵以外の何かであり
絵ではない何かでもあるとは言えないだろうか。なぜなら、それ以外なくしてそれを欠いて「絵」などあり得ないからである。「なぜ絵を描くのか」という答えのない問いは、なぜ「絵」は他者を、外部を、求めるのかという問いでもある。さらにそれは、眼の前に広がる埋めようのない底なしの裂け目を無謀にも推し量ろうとする
人間というものの、理解しがたい計りしれぬ不可解な〈欲望〉には違いないだろう。