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美術折々_288
では日本における「芸術」も不可欠なのだろうか
「芸術とは、人間の生存という根本的な問題に向かい合う上で不可欠なものであり、特にいまのように、確実性が崩壊し、社会的基盤の脆さが露呈し始めている時代には欠くことのできないものである」と、モニカ・グリュッタース(ドイツ連邦政府 文化・メディア大臣)はいう。
またドイツでは「何事にも関心を持ち、想像力と旺盛な実験的精神に満ち、矛盾を突き挑発することで、公共の言説に活気を与え、民主主義を政治的な無気力感や全体主義への傾向から守る人々、それが芸術家だ」という確信があるからだとも。これは何も芸術家に限ったことでもないし、すこし理想が過ぎるかも知れないが。
それでもここで言われているのは、少なくともドイツにおける芸術家の「役割」や「機能」などといったものではない。それは「日本のアート」の、あるかなきかのような作品や議論に絡みつく「アート有用論」などとはまったく異なる〈芸術の生存〉の次元のことであり、国家が示している芸術家像なのである。
僕は4月のこのブログでも『生存権としての芸術』について少し触れ、その中で「ドイツ憲法は、基本法 5条3項において『芸術および学問の自由の保障』として規定され、芸術の存在が明確に位置付けられている」と書いた。そして「私たちの日本国憲法上では一語の文言もなく『保障』もされてはいないこの国における〈芸術〉の寄る辺なさを思うとき、文化的=最低限度の生活に見い出されるべき《芸術的生存》は、いまだ未明の不確かなものとして放置されたままなのである。『事の本質』はそこにあるけれど」とも書いた。
ドイツにおける「芸術の保障」の有りようと、日本における「芸術の保障されなさ」は比較にならないほどのひらきがある。僕たちは今回の新型コロナウイルス感染にともなうドイツ連邦政府によるフリーランサーたちへの数十億ユーロともいわれる緊急生活支援策と、この国のわずかな支援策や金額とを比してもどうにもならない。
だから僕は日本における「芸術」の生存をも、あえて日本国憲法第25条の〈生存権〉つまり「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあるそのすべての「国民のなか」に芸術の生存を、法的最低限度の「生存」の根底に見い出そうとし、また位置付けようと試みたのだ。
だがいまさらドイツという国の成熟をうらやんでも仕方ない。ドイツよ笑うなかれ。これが日本の現状なのだ。
なんの身分の保障もない日本の「芸術家」という曖昧さ。それでもアーティストと称するものたちは、そしてアートに関わろうとする人たちは、それを嘆くまえに自らの《芸術的生存》の根拠をこそ示してほしいものだ。
もちろん僕も含めてだが。