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美術折々_274
記憶の中に残る味
Film Deracineのキース吉村氏が 福岡市中央区天神の水鏡天満宮横の路地に昔あった
喫茶「ばんぢろ」(1949-1998)のドリップコーヒーの思い出を今朝のFBで触れていた。
僕が出入りしたのは高校から大学までの1970年代の10年間ほどだったけれど、
ここの珈琲は独特の濃さと香りそれに苦味を持つものだった。
カウンターもあったが、奥の広くはない半地下になったコンクリートの床と冷たいビニール張りのソファ。
そこには少し湿り気の混じった空気とともに、いつも紫煙が立ち込めていた。
窓のないその半地下というのが、どこか隠れ家かアジトのようで、まさにアンダーグラウンド。
僕ら両切りのshort Peaceを喫う若者だけでなく、きっと怪しい人たちや作家もどき、あるいは
吉村氏が言うようにそれこそスノッブな文化人と呼ばれる連中も出入りしていたに違いない。
すぐ近くにはまだ福岡アメリカンセンターの白い瀟洒な建物もあり、福岡の若い作家の個展や
映像展をはじめ、多くのアメリカ実験映画や現代美術関連のスライドショーや講演も頻繁に行っていた。
来日したクリストやドナルド・ジャッドのトークもワイン片手にすぐ間近で直に聞けたものだ。
それらの帰りは余韻を引きずりながら、決まって「ばんぢろ」でその続きを語り合うのがつねだった。
こういう記憶は、何かのきっかけがないと自分からは中々思い出さないもの。
それはほぼ同世代の吉村氏もまた、おなじ空気を感じそれを呼吸していたからだろう。
いまの新型コロナウイルスの「空気」のなかで、若いひとどうしが愉しむ珈琲の苦味や
スピリッツの刺激は、いったいどんな味として刻まれ記憶の中に残っていくのだろうか。
埋めようのない空虚にも似た味のことを、いつか聞かせてほしい。
drawing 0705_MOTOMURA Masanobu