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美術折々_250
人間化しない人間のために
2020年初頭。ちまたで言われるように「現代美術」というものは、いまだ生きながらえているの。僕はこのブログだけでなく事あるごとに「現代美術」はすでに終わったことを書き、発言してきた。それを自覚したのは、いつも言うように1995年、つまりもう25年も前のことである。あるいはそれをソ連崩壊の1991年を分水嶺とする人もいるが。いずれにしろ、それ以後この間の「アート」への転換と拡散そして「現代」の崩壊はご存知の通りだ。
それでも現代美術、現代アート、美術、芸術、そしてアートという言葉は、その場その場においてすげ替えられ文脈をかえいまだ都合よく用いられ、そのどれででもあるかのようなものとして語られているという訳だ。
芸術の定義できなさを幸いにして、芸術の拡張は逆に「アート」という名で一般化し、エンターテインメント化を加速させてきた。つまり地域、国家や社会の〈中で〉の地位や機能、評価を与えられ、さらに境界なき新自由主義つまりグローバルな世界の中で、いっそう自由化し流通し市場化し経済化してやまない〈表現〉へと全面化している。やがていつか芸術は古典のみを意味するものとなり、アートは無化されていくことになるだろう。
この奔流は圧倒的ですらある。いったい誰が止められるのだろうか。反自然、人工物としてのアートの未来もまたアルゴリズムに置き換えられ、AIによっておおくの表現が取って代わられるに違いない。だからと言って「人間にしかできない」表現が際立ち生き残る訳でもない。なぜなら人間にしかできないものは、AIを駆使する残された「人間」にしかできないからだ。ではAIでも残された人間でもないもの。それは畜群か無用者階級か。
いやしかし、そのようにして私たちの生存が否定されていいはずはない。
ならば私たちというものは、何者になれるのだろうか。それを僕は《人間化しなかった人間》とよんで見る。
これはホモ・デウスでも超人でもない。つまり虚偽と欺瞞、善悪に同化し切れなかった人間。ただただこの生が一度たりとも否定されることのなかった人間のことだ。たったそれだけの。しかしそれが、どれほどおおくのものから遠ざけられ拒絶されて続けているかを思えばいい。私たちはむしろこれからの「人間」と、たもとを分かつべきだ。そしてそれとは違う、あたらしい人間たちと出会うことだ。
そうであるなら、芸術化しない〈芸術〉もまたありうるはずだ。古典やゴミのみに芸術を語らせてはなるまい。それが〈私たち〉というものの、あたらしい〈人間〉のことではないだろうか。