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美術折々_211
絵画ならざるもの[その四]
いったい絵画の向こうには何があるのだろう。
カンタンさ。絵画の向こうなら、なんだってあるさと人は言うだろうか。
ではどこまでが絵画で、どこからが絵画ではないの。
描かれたもののみが絵画で、描かれていないものは絵画ではないの。
じゃあ、何かが描かれてさえいれば、どんな絵でも絵画といえるのか。
それでは絵画は何でもアリになってしまうじゃないか。
それではなんでもが全てのものが、絵画になってしまう。
でも今や、絵画だって例外なく「なんでもアリ」じゃないの。
それでは「絵画はない」のと同じだ。
もうそれ以上先へは一歩も行けない世界の果てで立ちすくんだ時のように。
ついに絵画は眼窩の果てにまで来たことと同じになる。でもじつはそれもおかしいのだ。
絵画がこれから何度でも断崖に立ち、もし絶滅に瀕するときがくるとしても、ではだれがそれを見ているのか。
だって絵画はだれかによって見られてはじめて、絵画になるのだから。
「絵画の向こう」というのは、絵画の外(そと)としての「向こう」なのではない。
それは世界の裂け目、深淵であり、そのような場所に〈絵画〉もまた、繋がっているということだ。
だから絵画とは誰からも見られなかった、振りむかれることのなかったものが、つまり
〈絵画ならざるもの〉が転倒した時に、私たちに見えた姿なのである。
なおも私たちが「絵画の向こう」を見たいと欲するのは、その遥か手前に
〈絵画〉が、まだ生き残っているからだろう。