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美術折々_139
《舞踏》という歓び
昨夜は、「アートスペース貘」となりの「屋根裏貘」で舞踏家・原田伸雄の、とある受賞を祝う会があり
出かけた。今朝は多種多少のスピリッツが残ったまま、その持ち越しでいこう。
原田はもともと早稲田大学で演劇を志していたのだが、笠井叡の舞踏に触れ、転向。1972年から「天使館」に
79年の解散時まで参加。80年に自ら「舞踏青龍會」を結成し、その後84年福岡に帰郷。10年の沈黙を経て
舞踏青龍會を再結成している。それからの活躍は、知る人ぞ知るの通りである。
その原田はかつて、ヨーロッパ中世の世界観がクラシックバレエを産みモダンダンスの誕生を促したが、それを「諧調」の美だとするなら「舞踏はそれらにあえて乱調を持ち込んだのである」と語っていた。あの大杉 栄は「美は乱調にあり」、そして「諧調は偽りなり」と断じた。しかし今となっては「美」というものでさえ、諧調も乱調もなんら相反するすることなく肯定され歓迎される、そんな時代である。
ただ少なくとも原田伸雄の言う、舞踏に持ち込まれた〈乱調〉が、いまだ《美》というものに向けての肉体を
賭けた問い詰めの行為であることだけは間違いないだろう。
特に原田は〈即興〉を身上としているが、その上で「熟練上達は即興の対義語である」と言い、さらに「熟練
上達すればする程初心に還らねばならない」とも言う。ここには即興というものの困難さが吐露されている。
つまり、即興は常在初心。いつだって〈初心〉において踊らねばならないという難しさが、自らの肉体に向けて突きつけられているということだ。
しかしおそらく「初心」というのは、誰にとっても初めての、一回切りのこころのありようのはずだが、踊る
限り演じるかぎり、それを永遠に繰り返さねばならない〈即興〉というものの自由さと、不自由さ。
原田伸雄が自らの肉体を、個というものを、内側から超えようとする時。それを強烈に拘束する力を、《舞踏》というものは明らかに〈乱調〉としてしか誘惑しようのない、やはりひとつのテロルなのだろうかと思った。